【ガルウイングの2台】デロリアンDMC-12とブリックリンSV-1 理想と現実のギャップ 前編

公開 : 2021.02.27 07:05

スバル360の販売で得た経験を展開

充分な経験はなかったものの、若く行動力に長けていたブリックリン。今の自動車評論家にも興味を抱かせるだけの結果を残したことは、注目に値する野心だったといえる。

当時の記事には、カーボーイハットをかぶってインタビューに答える様子が残っている。1974年に最初のクルマが公開されるまで、ビジネスに関して固く口を閉ざしていたブリックリン。自動車の販売は難しくないことだと、信じていたようだ。

ブリックリンSV-1(1974〜1976年)
ブリックリンSV-1(1974〜1976年)

実業家の息子だった彼は、ホームセンターのビジネスで成功し大金を稼ぐ。22歳に会社を売却し、億万長者の仲間入りを果たした。

続いてスクーターの販売をこなすが、安全面で問題があると指摘され、スバル360の販売へ手を広げる。当時のカリフォルニア・ロングビーチには、売れ残った900台の軽自動車が停まっていた。

ブリックリンはショッピングモールの駐車場に、ゴーカート用のような特設サーキットを準備。いくつかのレジャービークルと一緒に、小さなスバル360の試乗体験ができるようにした。だがスクーターのように、360も安全である必要があった。

彼はビーチバギーで有名なブルース・マイヤーズを尋ねると、スバル360のボディの載せ替えを相談する。魅力的な見た目にし、耐久性や安全性を高めるため。そこで、改良に必要な施設と作業のコストを過小評価していたことを知る。

この経験から自らブランドを立ち上げ、クルマを作るアイデアが膨らんでいったようだ。

ジウジアーロとロータスの協力

一方のジョン・デロリアンは、大学を卒業してビッグ3の1つ、クライスラーへ入社。20年間の社会人経験のなかで、デトロイトの重要なモデル開発に関わっていった。ポンティアックGTOから、シボレー・ベガまで。

若くして実力を発揮したデロリアンは、最年少でGMの部門トップの座を掴んだ。しかし彼も、スポーツカーを作ることを夢見ていた。

デロリアンDMC-12(1981〜1982年)
デロリアンDMC-12(1981〜1982年)

クルマ作りのビジョンだけでなく、セールスマンやマーケターとしても、共通する才能を持っていた2人。能力に長けた人物を揃え、プロジェクトチームを結成した。

ブリックリンは、ブルース・マイヤーズのほか、フォードのトム・モンローとハーブ・グラースの3名を招聘。カーデザイナーのディック・ディーンとともに、プロトタイプ・モデルの制作を進めた。

一方のデロリアンは、ジョルジェット・ジウジアーロに連絡。デザインスケッチの制作を依頼した。シャシー開発は、ロータスのコーリン・チャップマンへ協力を仰いでいる。

さらに2人はそれぞれ、資金調達のために政府へ接近。ブリックリンのチームはカナダ東部、ニュー・ブランズウィックの有力人物の協力を取り付け、当時で900万ドルの融資を獲得。セント・ジョンの町に製造工場を、ミントの町にボディ工場を新設した。

トップ・セレブの名を利用することで、247件の見込みディーラーから8000ドルつづを請求し、注文前に1億ドルの追加資金を得る。決して話しが上手だったわけではない。「セーフティ・ビークル1、SV-1」というモデル名は、充分注目に値していたのだ。

この続きは後編にて。

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事