【トライアンフのMS部門】ワークスのTR2からTR7 V8、 スピットファイアに2.5 PIまで 前編
公開 : 2021.04.24 07:05
28年間、トライアンフはモータースポーツ部門を擁し、優れた成績を残してきました。その歴史を、部門を率いた経験を持つグラハム・ロブソンが振り返ります。
オリジナルのTR2からTR7 V8まで幅広い
28年間に渡り、ラリーや耐久レースへ参戦するモータースポーツ部門を運営してきたトライアンフ。その間に、親会社は2度も変わっている。
部門のマネージャーには7名が入れ替わり就き、5か所のワークショップを転々としながら、様々なワークスマシンを生み出してきた。オリジナルのTR2から300psを誇るTR7 V8、スタンダード・エイトにトライアンフ2.5 PIまで、その幅は広い。
技術的な高みにあった時期もあれば、成長に伸び悩んだタイミングもあった。TR7 V8は世界をリードするスポーツクーペだったが、ヴィテスは振り返りたくはない失敗例だろう。
サブリナと呼ばれるツインカム・エンジンは勝利を呼び込める能力を備えていたが、TRシリーズのサスペンション・ストロークの短さは、常に足を引っ張った。しかしそれらがうまく噛み合い、予想以上の勝利を掴み取っている。
サイドスクリーンを備えるTRシリーズは多くのクラス優勝を獲得。ツール・ド・フランスではアルピーヌ・ルノーへ屈辱を味わわせるように、トライアンフ・スピットファイアが強さを見せた。
1960年代にはサブリナ・エンジンを載せたTR4がホモロゲーション・スペシャルとして誕生。1970年代には軽量なフォード・エスコートに太刀打ちするため、スプリントのエンジンを積んだトレドが作られている。
英国RACラリーでは完全勝利
多彩なプログラムを展開していたモータースポーツ部門だったが、政治的な決定で1980年代初めに休止へ追い込まれ、復活することはなかった。今回はその歴史を、筆者、グラハム・ロブソンが振り返りたいと思う。
レーサーのケン・リチャードソンが指揮をとった初期の9年間は、TR2とTR3、TR3Aがワークスマシンとして用意され、序盤は大成功を収めた。だが、後半はライバルブランドに後塵を拝することになる。
トライアンフTRシリーズをなぜもっと速く軽量で、機敏に仕立てることがなかったのか、当時の多くの人が疑問を抱いていたはず。1955年のル・マン・マシンではディスクブレーキが標準装備だったが、チューニングや軽量化に積極的だった様子は見られない。
改良が施されたといえる内容だったのは、1957年のワークスカーでフロントにディスクブレーキが採用されたことと、1958年以降の2.2Lウェットライナー・エンジンの採用くらい。FIAの規定に沿う必要があったとはいえ。
それらのTRシリーズは、デビッド・セイグル・モーリスなどのプライベーターが登用。ワークスチームに並ぶ強さを証明している。
とはいえ、トライアンフは長距離ラリーで大きな成功を収めている。1954年の英国RAC(ロイヤル・オートモビル・クラブ)ラリーでは完全勝利といえる成果を収め、アルペン・ラリーでも優勝した。