【トライアンフのMS部門】ワークスのTR2からTR7 V8、 スピットファイアに2.5 PIまで 後編
公開 : 2021.04.24 17:45
2.5 PIにドロマイト、TR7の活躍
1969年、トライアンフはブリティッシュ・レイランド社が買収。企業全体としてモータースポーツ部門は1つで充分だという判断を下す。MGの工場があった英国アビンドンが拠点に選ばれ、マネージャーの座にはピーター・ブラウニングが就いた。
ブラウニングは、既に10年選手だったトライアンフ2000のレイアウトを活かし、2.5 PIの開発を進める。1970年のワールドカップ・ラリーにすべてを投じ、カルチェスは総合2位を掴んだ。
優勝したのは、フォード・エスコート1850GTをドライブした、ハンヌ・ミッコラ。パディ・ホップカークの2.5 PIも、もう1台のエスコートを挟み4位に入賞している。
しかしブリティッシュ・レイランドは優勝できなかったことを非難し、モータースポーツ部門を解散。ブラウニングは不満を顕にし、マネージャーを退いた。
イザコザから4年後、英国アビンドンでモータースポーツ部門が再び復活。トライアンフは、6年間ほどブリティッシュ・レイランドの主要ブランドとして活動を展開した。
最初に注目を集めたのは、16バルブ・エンジンのトライアンフ・ドロマイト・スプリント。FIAのグループ1に属するマシンとして、サルーンカー・レースやラリーなどで大成功を収めた。
モータースポーツ部門のディレクターにジョン・ダベンポートが雇われると、TR7が主役へと移る。この活躍は、広く知られているところだろう。
V8エンジンを搭載したTR7 V8
当初の2年間は控えめな4気筒エンジンを積み、スピードも信頼性も高くはなかった。だが1978年にローバー製のV8エンジンを採用。TR7 V8として、ホモロゲーションを獲得し活躍している。
その後、少し遅れてTR8としてリリースされ、トニー・ポンドは300ps以上のパワーを手懐けた。
深刻なエンジン・トラブルもなくはなかったが、路面状況次第ではTR7 V8はフォード・エスコートRS1800をはじめとする欧州のライバルを相手に、世界最高峰といえる戦いを披露。舗装路では、圧倒的な速さを見せつけた。
ベルギーで開かれたイープル24時間ラリーや、英国のマンクス・トロフィー・インターナショナルでは、ポンドが2度の総合優勝。パー・エクルンドなどのチームメイトも、好成績を残している。
1981年にはハンドリングを向上させ、エンジンはインジェクションを改良。信頼性も大きく引き上げられる。ところが、親会社のブリティッシュ・レイランドは別の方向を見ていた。
ローバー3500を代表する、SD1シリーズのレーシングマシンとしての可能性に上層部は注目。同時にMGメトロ6R4が、グループBカテゴリーのクルマとして完成に近い状態にあった。
ブリティッシュ・レイランド社は、TR7 V8を登用したモータースポーツ・プログラムを休止。それを機に、トライアンフによるモータースポーツ活動は幕を閉じたのだった。