【ブラバムとペンスキーへ導いた】祖父のジャガーXK140 モータースポーツへの入口 前編
公開 : 2021.07.24 07:05
祖父と見たジャック・ブラバムの走り
釣り場への移動手段として、ジャガーはしばしば駆り出されたという。ニックが続ける。「キレイに乗ることに感心はなかったようです。釣ったサケやマスをそのまま足もとやシートの後ろに置くので、ウロコやネバネバした汚れでカーペットが覆われていました」
「ガレージも掃除された様子はなく、ジャンクなクルマの部品でいっぱい。でも不思議と、小さかったわたしにはファンタジーな世界に感じられたんです」
「ある時、祖父からブリティッシュ・オートモビル・レーシングクラブの会報誌をもらいました。XKに座って、その雑誌を読みました。レーシングドライバーになりたいという、当時の男の子らしい夢を抱きながら」
「XKに座っているだけで、レースに勝った気分でした」。そう話すニックだが、10歳の頃にクルマへの興味は薄れていった。だが11歳の時、祖父とロンドン南部のクリスタル・パレスで開かれたレースを観戦し、考えが変わったという。
オープンホイールのマシンによる、白熱した戦いに心が奪われた。特にジャック・ブラバムの走りに。「モータースポーツへ夢中になりました。本を買うために新聞配達でお金を貯めるほど」
「住んでいたオクステッドの街から、40km近く離れたブランズハッチやグッドウッドまで、自転車でレースを見に行くんです。夜明け前に出発し、日が沈んでから帰ることも」
「ほどなく、ロンドンから南西に離れたウェスト・バイフリートへ引っ越しました。偶然にも。ジャック・ブラバムのチームの拠点がある街で、1963年の夏休みに自転車でワークショップを訪ねました」
ブラバムのチームで頭角を現したニック
「何か手伝って欲しいと声をかけられるまで、外でずっと待ったんです。そのまま学校へは戻らずじまい。父はブラバムとロン・トーラナックへ会い、見習いとしてチームに加わることに同意してくれました」
「自分は何もできませんでした。一緒に働くスタッフにも、役に立たないと直接いわれるほど。一緒に過ごす中で、多くのスキルを教えてもらいました」。ニックが振り返る。
「マシンのすべてを知っている必要があったんです。スペアパーツの数は限られていて、レースでツアーに出たら、メカニックは部品を作る。マシンがクラッシュしたら、可能な限りサーキットで直すことも求められました」
「わたしが最初に同行したレースは、イースター・マンデーのグッドウッド。ダン・ガーニーとジャック・ブラバム、デニス・ハルムが戦いました。ジャックとダンには専門メカニックがいて、2人の間を行き来するスタッフも数人」
「自分はお茶の担当。タイヤ交換を手伝うくらい」。ニックは徐々に頭角を現し、1968年にエンジニアのタウラナックに認められる。ガーニーやブラバムだけでなく、ヨッヘン・リントにグラハム・ヒルといった名だたるレーサーのマシン管理に関わった。
「実業家のバーニー・エクレストンが1972年にブラバムを買収。不要なレースカーを処分するように指示されました。話を聞きつけたプライベーターが集まってきて、ラジエターや燃料タンクなど、部品を喜んで持ち帰って行きましたよ」
この続きは後編にて。