【ハイブリッドの先駆者たち】前編 ファミリーカーからスーパーカーまで 黎明期のハイブリッド再検証
公開 : 2021.07.10 11:05 更新 : 2021.07.17 01:58
エコカー界のスーパーカー
XL1は、方向性こそ違うが、常識はずれの技術の塊という点でいえば、ブガッティ・ヴェイロンの従兄弟みたいなクルマだ。どちらもピエヒの監督下で開発され、スーパーカー的な理論を異なるかたちで使ったのである。2014年まで生産され、最終的な価格は9万8515ポンド(約1379万円)。大衆車というには、あまりにもワイルドだ。
モノコックはフルカーボンFRPで、マグネシウム合金のホイールを履き、ブレーキディスクはカーボンセラミック、エキゾーストはチタニウム。手動で開閉するランボルギーニ・カウンタックのようなウインドウはポリカーボネートで、スパルコ製のシートはシェルがカーボンFRP。パワーアシストなしのステアリングと、専用のマグネシウムケースに収まったDCTを装備し、アンダーフロアはフラット。エンジンはリアミドシップに搭載し、デリケートなスタビライザーもカーボンFRPを用いている。
スーパーカーだとしても、間違いなくハードコアな部類に入る。そして、なにより小さい。車幅はルノー・ルーテシアより狭く、車高はアリエル・アトムのエアボックスより低い。細長いレバーで開くガルウイングドアもスーパーカー的で、やはりピエヒが手に入れたランボルギーニを思わせる。もっとも、その管理はフォルクスワーゲンではなく、アウディの管轄とされたが。
パワートレインは、800ccの2気筒ディーゼルターボに小さな電気モーターを加え、約50kmのEV走行が可能。結果、111km/Lを誇るハイパーなハイブリッドができあがった。
ピエヒが農夫のような格好で、宇宙船みたいなプロトタイプを走らせていた頃、トヨタとホンダは次の段階へ進もうとしていた。両者とも、すでに市場での燃費争いを本格化しており、トヨタが世界初の量産ガソリンハイブリッドをデビューさせていたことはご存知の通り。いっぽうのホンダはわずかに遅れて、ハイブリッドに空力性能と軽量化を組み合わせた際の有効性を示してみせた。
ハイブリッド時代のパイオニア
1994年に始動した初代プリウスの開発は、タフさを極めた。真の21世紀のクルマを送り出そうという決意を固めたトヨタの首脳陣が、当時のカローラに対して倍の燃費性能達成を厳命したのだ。エンジニアリング的に全く未知の要素というわけではないものの、ゴールはなかなか見えなかった。
「通常の乗用車開発では、経験豊富な年配スタッフがあまりにも熱心で、助言しづらく、若いエンジニアは新しいことをできませんでした」と、プリウスの開発責任者だった内山田竹志氏は、2015年の日経アジアの取材に答えている。「ところがハイブリッドに関しては、誰もどうしていいかわからなかったので、干渉もできませんでした。重圧は大きかったですが、士気も高まりましたよ」。
彼らが創り出したのは、電気モーターをふたつ使ったシステムだ。メインとなるのは駆動用モーターで、減速時にはジェネレーターとして機能し、エネルギー回生を行う。もうひとつは、エンジン駆動力を電力に変換するジェネレーターで、CVT機能の制御と、それを介してエンジンをクランキングするスターターも兼ねる。
それらのフローを整えるのはプラネタリーギアで構成される動力分割機構で、これがエンジン回転数を制御するCVTとしても機能する。この複雑怪奇さを考えると、エンジンカバーに記されたハイブリッドシステムの文字を、楽しげで無邪気さすら感じる字体としたのは、マーケティング部門の腕利きのお手柄といえるだろう。
その作業の広範囲ぶりは、理解し難いほどだ。内山田氏は先に引用したインタビューの中で、開発当初はニッケル水素バッテリーの出力が必要とされる数値の半分にしか達しなかったと打ち明けている。しかも、欠陥率は許容レベルの100倍だったという。
1995年に、トヨタはプリウスの発売を1年延期し、1997年とすることを決定する。このタイミングでスケジュール変更が必要な事態というのは、悪いジョークだといっていい。この頃、エンジニアたちが完成させていたのは1台のプロトタイプのみで、しかも49日間も動かなかったらしい。
その風向きが変わったのは50日目のことで、その走行距離はたったの500mだったものの、状況は確実に前進を始めた。「21世紀に間に合いました。」というのは単なるキャッチコピーではない。血と汗のにじんだ本音だったのだ。