【チャーミングな元祖SUV】ジープCJ-7 トヨタ・ランドクルーザー FJ40 2台を乗り比べ 前編
公開 : 2021.07.13 19:15 更新 : 2022.08.08 07:28
量産自動車メーカーへ飛躍させたFJ40
CJ-7では、1950年代から活躍する4気筒ジープをリスペクトするように、ハリケーン・ユニットと呼ばれた。当時の4ホイラー誌には、「第二次大戦では4気筒のジープが勝しました。このジープも、どんな要求にも対応できます」。と表現されている。
しかし4気筒エンジンのジープは、多くがV8へ載せ替えられており、現存数は少ない。新車当時の北米価格は、CJ-5より500ドル高い6507ドルだった。
1980年代に入ると、ジープは風光明媚な海岸線や山岳地帯に姿を表すようになる。カリフォルニアのビーチサイドでは、ルーフとドアを外し、男女4人がクルージングする様子が定番となった。春が来ると、多くのCJ-7が街へ繰り出した。
CJ-7は、ハリウッドの陽気なB級映画にもしばしば姿を見せた。軍事モノではなく。ジープは、マンハッタンのネオンストリートやサンセット大通りを流す、セックスシンボルになったと、4ホイラー誌が不快そうに取り上げるほど。
他方、日本生まれのFJ40は、そこまで羽目は外していない。ハリウッドとは縁がなく、重くフラットなスチールボディの取引価格を、健全な範囲に留めている。
ジープと同様、ランドクルーザーも軍事的な目的が起源。トヨタを量産自動車メーカーへ飛躍させる、大きな役割を果たした。
1950年代初頭、トヨタは韓国へ駐留する連合軍向けに開発したオフローダーの製造契約を逃し、ランドクルーザーとして発売されることになる。その結果、現在でも名を残す、トヨタで最も長寿命のモデルになった。
見た目で年式を当てることはほぼ不可能
FJ40のフラットなボディの内側にあるのは、基本的にはトヨタ・ジープBJ。1951年に登場したモデルで、エンジンは3.4LのBシリーズと呼ばれる直列6気筒を積んでいた。
ジープBJは標高924mの京都・愛宕山へ頭頂し、富士山の6合目までも走破。しかし、大口契約は三菱が生産するB-85と呼ばれるウイリス・ジープへ流れた。
1955年に「ジープ」は商標登録され、トヨタはランドクルーザーへ改名。BJ20型では、フロントグリルに並ぶ丸いヘッドライトというスタイルが完成している。BJ型はFJ型へ展開し、ボンネットは緩くカーブを描くように。フェンダーもボディに馴染んでいる。
ランドクルーザーを世界に知らしめたのが、第3世代といえる1960年のFJ40型。ジープやランドローバーと同じくオフロード走行が得意で、トヨタの輸出市場で実力を示した。
FJ40ではHシリーズのディーゼルと、Fシリーズのガソリン6気筒に、4気筒ディーゼルのBシリーズが追加されている。それでも、見た目は当初から大きく変化していない。
ボディタイプは複数が用意され、長短2種類のホイールベースに、ハードトップとソフトトップ、ピックアップにスイングドアのワゴン、さらに一風変わったFJ55と呼ばれる長いステーションワゴンまで多様。多くの目的に合致することができた。
FJ40の生産は長く続けられたが、CJ-7と同様に設計が煮詰められ、洗練度や耐久性は向上している。そのため専門家でない限り、見た目から年式を当てることはほぼ不可能。ランボルギーニ・ミウラやローバー・ミニとは別の意味で、タイムレスな存在だ。
この続きは後編にて。