【真のアメリカン・スポーツ】デュポン・モデルG スピードスター 5.3L直8でル・マン参戦 前編
公開 : 2021.08.22 07:05
ル・マン24時間レースへ参戦
新モデルの高性能ぶりを証明したいと考えたミランダ・ジュニアは、ル・マン24時間レースとアイリッシュ・グランプリへの出場を考える。当時のル・マンでは、4シーター・ボディが参加ルールとして決められていた。
2台の1929年式モデルG スピードスターをル・マン・ボディに改めるため、デュポンはブリッグス・ウィーバー社へ作業を依頼。専用のデュアルカウル・ボディを成形し、アメリカン・レーシングホワイトで塗装された。
英国のラッジ・ホイットワース社製ホイールに、フレア・サイクルフェンダー、レザーのボンネットストラップなど、ヨーロッパ風のディテールで仕上げられた。特徴だった流線型のヘッドライトは、高効率の丸形3灯へ置き換えられた。
ミランダ・ジュニアは、チャールズ・モラン・ジュニアのコ・ドライバーとしてル・マンに参戦。彼もデュポン・モデルの販売に関わっており、すでに欧州での参戦経験を持っていた。ル・マンに参戦した、初めてのオール・アメリカンのチームだった。
高身長のモラン・ジュニアも、生粋のクルマ好き。ベントレーやマセラティ、フェラーリを定期的に乗り継いでいた。当初は販売員の1人だったが、優れた技術力はデュポン社ですぐに頭角を現したという。
1932年には金融事業に注力するためモータースポーツから手を引くが、第二次大戦以降はル・マンに復帰。1951年にはフェラーリ212、1953年にはカニンガムC4Rクーペで戦っている。その後、スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカの中心人物になった。
サンドバッグが壊したトランスミッション
さて、1929年のル・マンに参戦することになったデュポン・モデルG スピードスター。準備は首尾よく進められたが、2台目のクルマは試走中に破損。1台での出場を余儀なくされた。
必要なすべての装備は、フランスへ一足早く到着。レース前のテスト走行として、フランス・モンテリ・サーキットが予約された。
コンチネンタル・モータース社製のサイドバルブ5.3L直列8気筒エンジンを積むとはいえ、モデルG スピードスターの車重は2t以上と軽くなかった。それでもテスト走行では、160km/h以上のスピードが出ることが証明された。
期待を胸にスタートしたル・マン。真っ白のスピードスターが、レーシンググリーンの英国勢と互角に走った。当初はトップ10にランクインするほど。アメリカ勢として他にスタッツとクライスラーも参戦していたが、平均117km/hの速度でリードした。
しかし20周目にトランスミッションが故障。リタイアしてしまう。後にポール・デュポンが回想している。「レースでは、無駄なウエイトを載せる必要がありました。経験不足で、リア側のフロアにサンドバッグを載せて、バランスを取ったんです」
「レース中にバラストがフロアを破り、プロペラシャフトに当たってトランスミッションを破壊。車載道具での修理は不可能でした。アメリカ勢として、ノーマルのクルマでアマチュア2人がル・マンでの栄光を目指した、勇敢なチャレンジでしたね」
この続きは後編にて。