波乱万丈 マツダ「モノづくり思想」の原点はコルクにあった 経営者「松田重次郎」の足跡
公開 : 2021.11.15 05:45
独立で成功 裏切りで留置所へ
そして、松田重次郎氏は若干31歳で独立し、大阪に作業場を構える。
ひたすら現場で技術を学び技術を身につけた松田重次郎氏は、一種のモノづくりの天才であったのだ。
最初は、水道メーターの修理を行っていたが、33歳のときに、従来あるポンプを修理しやすいように改良。
特許を取得して「松田式ポンプ」として売り出す。
このポンプがスマッシュヒットを記録した。
その成功で、松田式喞筒(ポンプ)合資会社を設立するのだが、ここで大事件が起きる。
なんと、その成功を奪おうという部下の裏切りにあい、松田重次郎氏は業務上横領の疑いで49日間にわたって留置されることになってしまう。
さらに、別件で会社乗っ取りを企てる事件も発生。
この2つの事件で嫌気をさした松田重次郎氏は、自分で起こした会社を離れることに。
新たに松田製作所を設立して、改良を加えた新しいポンプなどを製造、販売を続けてゆくのだ。
そうした苦闘の中、1912年(大正元年)には大阪新世界の遊園地の巨大な噴水作りやケーブルカー製作に協力。
松田製作所の高い技術は徐々に世に知られるようになってゆく。
ビッグビジネスで成功も……
そんな松田製作所にビッグビジネスの話が飛び込んできた。
第一次世界大戦が勃発した翌年となる1915年(大正4年)、ロシアから砲弾用の信管400万個もの注文を受けたのだ。
松田重次郎氏は、このビジネスを成功させるため、株式会社松田製作所を設立。
大阪梅田駅の裏に5000坪の土地を阪急電鉄から購入し、工場を建て、約4000人の職工を雇い入れる。
そして、1年ほどで400万個の信管を製造・納品してみせた。手にした利益は、現在のお金にすれば数百億円規模であったという。
この成功によって、松田重次郎氏は、大阪の経済界から「今太閤」と称えられることとなったのだ。
ところが、そんな松田重次郎氏に、またも試練が襲う。
松田重次郎氏は、会社の発展を願い、広島への移転を計画したのだが、それをよしとしない社内幹部から反発を受け、計画は無期延期へ。
またしても部下に裏切られた松田重次郎氏は、会社を辞任。故郷である広島で再スタートを切ることになる。松田重次郎氏、42歳の春であった。
地元広島財界からの歓迎を受け
広島へ戻った松田重次郎氏は早速、新たに松田製作所を設立する。
50万坪の土地を手に入れたところまでは良かったが、その後が続かなかった。資金が集まらずに足踏み状態となったのだ。
最終的には、そのプランは日本製鉄所へ身売りすることになり、松田製作所は広島製作所と名乗ることになる。
そして、1919年(大正8年)、44歳の松田重次郎氏は辞任。フリーの身となる。
そんな松田重次郎氏を待っていたのは、地元財界からの大歓迎であった。
大阪で「今太閤」、「金儲けの神様」とまで称えられた人物だ。事業を見てほしいという引き合い多く、結局、松田重次郎氏は約20社に関わることとなった。
そして、その中の1つに清谷商会があった。後の東洋コルク工業となる個人商店だ。
ちなみに、何十もの会社に関わった時期の松田重次郎氏は、モノづくりよりも、お金儲けに気持ちが傾いていたという。
しかし、そんな松田重次郎氏の心に一喝を与え、原点であるモノづくりに向かうことにさせた事件があった。
それが「株取引の大失敗」だ。