元WRC王者、リチャード・バーンズへの想い 友人が語る素顔 世間との「ギャップ」も

公開 : 2021.11.28 06:05  更新 : 2022.11.01 08:57

いつまでも大切にしたい友人との思い出

気前は良かったが、時々、初期の頃の節約癖が出てしまうことがあった。1998年頃、キャリアは飛躍的に伸び、彼は自分の家を買った(わたしの家から約30mのところだ)。そして信じられないことに、自分で家具を運ぶことにしたのだ。これが大失敗。彼をマットレスごとBTCCレーサーのジェイソン・プラートのワゴン車に乗せ、縛って固定するハメになった。

そして何より、彼が愛してやまない家族がいた。彼の一番のファンだった祖母にはラリーのたびに話をしていたし、祖父が亡くなってからは結婚指輪をネックレスにして身につけていた。実はこれ、2000年にフィンランドでクラッシュしたときに外れて窓の外に飛んでいってしまったのだが、とても大切なものだったので、見つけるまで下草や倒木をかき分けて探した。

リチャード・バーンズ
リチャード・バーンズ

父アレックス・バーンズとの関係も極めて親密なものだった。アレックスの存在は、リチャードの下積み時代の原動力であり、WRCでもよくそばにいた。リチャードがマーガムパークで世界チャンピオンになってクルマから降りたとき、最初に抱きしめたのが父親だった。

その週末には、仲間が世界チャンピオンの写真を何枚も撮っていた。当時、わたしはまだフィルムで撮影していたので、道具を持ってナイトクラブに行く前にかなりの準備が必要だった。ダリオとマリーノのフランキッティ兄弟も来ていて、盛大なパーティーが開かれていた。リチャードはロープで囲まれたVIPエリアに陣取っていたので、わたしは彼と2、3杯飲んでから、満員のダンスフロアに繰り出した。

不在が目立ったのはコリンで、彼は序盤で帰ってしまったのだが、リチャードに電話でお祝いを伝えていた。また、リチャードがカルロス・サインツからのメールを見せてくれたのも覚えている。「Welcome to the club」とだけ書かれていたが、それだけで十分だった。

これが、わたしが大切にしている思い出だ。リチャードが若くして亡くなっていなかったら、そのキャリアがどうなっていたかはわからない。WRCの競争が激化し、スバルの競争力が弱まりつつある2004年にスバルに復帰する予定だった。彼の心はダカールやラリーレイドに向いていたと思うし、若手ドライバーのマネージャーやアドバイザーとしても活躍していただろう。

彼はアリ・バタネンのような思想家だったので、コ・ドライバーがチームマネージャーやFIAの幹部になるという流れに逆らっていたかもしれない。自然を愛する彼は、気候変動に焦点を当てた活動に参加し、さまざま場所を訪れていただろう。

最愛のゾーイとも結婚して、わたしは本当は結婚式のスピーチをすることができたはずだった。ところがわたしは、ロンドンのチェルシーにある教会の大きな納屋に立っていた。追悼式でのスピーチを承諾したのだが、わたしの他にプロの放送作家であるスティーブ・ライダーとジェレミー・クラークソンがスピーチに立つとは知らなかった。

緊張すると同時に、本当に光栄なことだった。10分はあっという間に過ぎてしまったが、今でもその時の録音を持っていて、時々苦笑いしながら聞いている。あの時、わたしは友人のリチャードをきちんと評価できたと思っているし、ここでもそうありたいと思っている。

スバルからプジョー

2001年のWRCでタイトルを獲得した翌日、リチャードはスバルのPRのためにロンドンに滞在していた。その日の夜、彼の家に行くと、明日はウェールズに一緒に行かないかと誘われた。彼は、「万が一、二度と運転できなくなったときのために」と、プジョー206 WRCをテストするつもりだったのだ。

2001年にリチャードが世界チャンピオンになれば、スバルは彼を残留させることができるという奇妙な契約状況であった。その2日後、リチャードはスバルとの契約を解除するための協議を行うことになったのだ。

リチャード・バーンズ
リチャード・バーンズ

11月の朝、わたし達はヘリコプターでウェールズに向かった。彼は有名なヒギンズ・ラリー・スクールでプジョーを走らせ、その日の夜にはパブでのディナーに間に合うように帰宅した。

その日に撮った写真は、リチャードのためだけに撮ったもので、今でも未発表のままだ。彼は本当に、もう二度とクルマを運転することが許されないのではないかと思っていた。しかし、その2日後、彼はプジョーに移籍した。

筆:ラリー写真家コリン・マクマスター

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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