ロータス・エリート 初代オーナーは本田宗一郎氏 レストアを終え日本へ 前編

公開 : 2022.01.01 13:45

鈴鹿サーキットでの横転事故

小さなエリートは魅力の塊だったという。時折のドライブが、素晴らしい楽しみになった。なかでも、東京から400kmほど離れたホンダのテストコース、鈴鹿サーキットへのクルマ旅は、当時としては大冒険だったに違いない。

高速道路はおろか、都市部から外れればアスファルト舗装の道すらなかった時代だ。後にF1が開催される国際サーキットで初めてクラッシュしたのが博俊だという、笑えない逸話も生まれた。

ロータス・エリート・タイプ14(1962年)
ロータス・エリート・タイプ14(1962年)

博俊が振り返る。「1962年の事件でした。一緒に向かったレーシングドライバーの生沢徹さんは、日本で最高のドライバー。プロですので、彼は何の問題もなく2・3周ほど運転しました」

「わたしが初めてサーキットに出ると、スプーン・コーナーでアクシデント。クルマが横転してしまったんです。燃料が漏れて、死ぬんじゃないかと思いました。慌てて窓を蹴って脱出し、助けが来るまでしばらくそこで待ちましたね」

「エリートはフェンダーのヘッドライト付近と、ルーフにひどいダメージを受けました。ルーフで10mから15mくらい滑りましたが、FRP製モノコックが非常に頑丈なことには驚きました。地面に引っ掻いた跡が残っていましたよ」

彼はエリートの修理を考えるが、新技術のFRPを手掛けてくれる場所は見つからなかった。「その頃、日本へ輸入されたロータス・エリートは2台だけ。誰も直せませんでした。なんとかして、東京に修理を請けてくれる小さなガレージを見つけましたが」

レストアのために2018年に渡英

その修理で、ロータスはジェット・ブラックに塗装された。だが、都心での運転は事故のリスクと隣り合わせにあったという。「50年以上前の東京は街灯も少なく、夜は真っ暗。低くて小さい黒いクルマは、危険だったんです」

「しかも、エリートは速い。夜道を沢山の人が歩いていて、事故を起こしそうな場面もありました。父と話をして、ボディを白く塗り直したんです」

ロータス・エリート・タイプ14(1962年)
ロータス・エリート・タイプ14(1962年)

白くなったボディを見届けた博俊は、日本を脱出し海外へ旅に出た。2年半後に戻ると、エリートはホンダの自動車大学校の所有物になっていた。クルマを学ぶ教材として、1980年まで学生の手で分解と組み立てが繰り返された。

人材育成の役目を終えたエリートはカーコレクター、馬場ナオキ氏が譲り受け、静岡と埼玉との移動に活躍。その後は分解しガレージで保管されていたが、2018年に本格的なレストアが施されることになる。

馬場が依頼したのが、英国南東部のケント州に拠点を構えるブシェル・ビークル・レストアレーションズ社。1960年代後半のスポーツカー、コスティン・ネイサン・プロトタイプのレストア事例が決め手になったようだ。

「バラバラの状態で届きました。40年ほど、その状態で保管されていたようです」。ボディシェルを担当した、同社を営むデリル・ブシェル氏が説明する。

「残念なことに、一部の部品は消失していました。クオーターガラスとフレームは、北米から調達しています」。モノコックは日本でも多少手が施されていたものの、理想的な状態へ復元するには、多大な努力が必要なことは明らかだったらしい。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    グレッグ・マクレマン

    Greg Macleman

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ロータス・エリート 初代オーナーは本田宗一郎氏 レストアを終え日本への前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事