東欧の奇妙なクルマ 21選 共産圏が生んだ名車・珍車・迷車、どれだけ知ってる?

公開 : 2021.12.12 06:05

トラバント601(1964年)

旧東ドイツのトラバントは1964年、それまでの600に代わり、工場労働者でも買えるベーシックな交通手段として601をリリースした。画期的な要素は何もない。先代の2ストローク2気筒エンジンを継承し、ボディはデュロプラスト製を採用した。デザイン的には、洗濯機で縮んだプジョーの404に似ている。

1970年代初頭には601の後継モデルが登場すると予想されていたが、結局、1990年までほとんど変わらずに売られ続けた。しかし、1989年にドイツが統一されると、601の価値とイメージは急落。東ドイツのドライバーたちは、西ドイツ製の速くて近代的なクルマを手に入れた途端、601を街中で捨ててしまった。

トラバント601(1964年)
トラバント601(1964年)

その結果、東ドイツ全土に放置されている何千台ものトラバントを廃棄しなければならないという予想外の問題が発生した。ボディが金属製ではないため、スクラップ置き場では引き取ってもらえない。ある会社は、トラバントを食べるバクテリアを開発して、わずか20日でボディを消滅させることに成功した。

ヴァルトブルク353(1966年)

こちらも旧東ドイツのブランドから。デザイン面では、旧型の312に比べて大きく進化したヴァルトブルク353。1960年代後半に流行したスタイリングにぴったりのボクシーなラインを採用している。

しかし、ボンネットの中を覗いてみると、当初の宣伝と話が違っていた。353に搭載された2ストローク3気筒エンジンは、当初45psとされていたが、開発コストを抑えるために性能が削られてしまったのだ。

ヴァルトブルク353(1966年)
ヴァルトブルク353(1966年)

このため、西欧では353を販売することは難しかったが、それでもヴァルトブルクは1968年から1976年の間に少なくとも2万台の右ハンドル車を輸出した。ベネルクス諸国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)ではタクシーとしても人気があり、西ドイツでも少数が販売された。

その後、ワゴンやピックアップなどのバリエーションが増えていった。353は長い生産期間中に何度か外観が変更されたが、その2ストロークエンジンはベルリンの壁よりも長く使われ続けた。1989年に最後の2ストローク車を製造したのはヴァルトブルクだった。

ZAZ 966(1966年)

ウクライナのZAZ 965は、あまりにも欠陥が多かったため、何十年にもわたって少しずつ改良を重ねるのではなく、一から後継モデルを設計することにしたと言われている。その結果、1966年に誕生したのが966である。快適で広々としており、冷却性能も改善されていた。

966はリアエンジンの2ドアセダンで、NSUプリンツやシボレー・コルヴェアを彷彿とさせるデザインでショールームに登場した。1971年には968に進化しているが、このデザインこそZAZが求めていたものであった。968は1994年までマイナーチェンジを繰り返しながら生産が続けられた。V4エンジンを搭載して量産された最後のクルマとして、(ひそかに)記憶されている。

ZAZ 966(1966年)
ZAZ 966(1966年)

記事に関わった人々

  • 執筆

    ロナン・グロン

    Ronan Glon

  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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