東欧の奇妙なクルマ 21選 共産圏が生んだ名車・珍車・迷車、どれだけ知ってる?
公開 : 2021.12.12 06:05
ザスタバ・スカーラ(1971年)
1971年、フィアットとザスタバのコラボレーションはさらに進み、4ドア・セダンの128の生産が開始された。同年後半には、シムカ1100にインスパイアされたザスタバ固有のハッチバックモデルが発売されるなど、シリーズが拡大。このモデルは101と呼ばれていたが、さまざまな市場でさまざまな車名(スカーラなど)が使われた。
128の派生モデルは2008年まで生産された。2008年に開催されたベオグラード・モーターショーでは、ザスタバが最新モデルを展示し、少なからず注目を集めている。スカーラの最終進化形は、アルミニウム製ラジエーター、強化された駆動部品、モダンな見た目のインストゥルメント・クラスターを備えていた。
1970年にヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したモデルのルーツをたどると、これらは小さいながらも重要な変化だった。
ポルスキ・フィアット126p(1973年)
フィアットは、さらなる収益を求めて淡々と東欧に進出していった。ポーランドで125pの生産を開始し、ラーダに124の基本設計を提供し、ザスタバに128を作らせた後、ポーランドのFabryka Samochodow Malolitrazowych(FSM)に126の製造ライセンスを売却したのである。
1973年に生産が開始された126(ポーランド語で「小さなもの」を意味する「Maluch」と呼ばれている)は、その低価格とシンプルなデザインが評価され、ポーランドで最も人気のあるクルマの1つとなった。FSMが100万台の生産を達成するまでには、10年もかからなかった。
西欧ではチンクエチェントが1991年から126に取って代わったが、ポーランドでの生産は2000年まで続いた。生産された460万台の126のうち、約330万台に「Made in Poland」のラベルが貼られている。
ラーダ・ニーヴァ(1977年)
「ランドローバーのシャシーにルノー5を載せたようなクルマ」というのが、ラーダ・ニーヴァのデザイナーに与えられたガイドラインだった。その使命は果たされた。ウズベキスタンの砂漠で徹底的にテストされたニーヴァは、安価に作れてメンテナンスも簡単な、日常的に運転できるオフローダーとして1977年にロシアで発売された。
ラーダはジープのようなオープントップの試作車をテストしていたが、シベリアの冬を走るという厳しい現実を考慮して、賢明にもクローズドルーフを選んだのである。
ニーヴァは、世界中のすべてを見、すべてを経験した。ラーダはこのモデルを世界の四隅に輸出(一時的にはカナダにも輸出)し、さらには南極のキングジョージ島にも送った。現在もロシアを中心に比較的よく売れているが、2023年末に生産を終了する予定だ。