ベントレー4 1/4リッター・ヴァンデンプラ・スポーツツアラー 金色のビンテージ 前編

公開 : 2022.01.29 07:05

歴代のレーシングドライバーも愛用した

ハイカムが組まれたプッシュロッドの直列6気筒エンジンは、最高出力126psを発揮する。低回転からトルクが豊かで、変速をサボっても運転には困らない。ホイールは、この年代としては控えめな17インチを履く。

油圧ショックアブソーバーを装備し、乗り心地は良好。スポーツカーとは呼べないが、車重は約1500kgと比較的軽い。カム&ローラー式のステアリングラックに慣れれば、驚くほど扱いやすい。

ベントレー4 1/4リッター・ヴァンデンプラ・スポーツツアラー(1939年/英国仕様)
ベントレー4 1/4リッター・ヴァンデンプラ・スポーツツアラー(1939年/英国仕様)

マルコム・キャンベル氏やプリンス・ビラ氏、レイモンド・メイズ氏といった歴代のレーシングドライバーも、サーキットへの移動にダービー・ベントレーを愛用したという。その理由もうなずける。

このベントレーをオーダーしたのは、エドワード・ヘンリー・モリニュー氏。1938年にB154MRシャシーの4 1/4リッターを購入すると、コーチビルダーのスラップ&マバリー・セダンカ社へクーペボディの製作を依頼した。

さらにモリニューは、2台目のオーバードライブ付きシャシー、B35MXもオーダー。なぜか、そのクーペボディを載せ替えている。結果的に、B154MRのシャシーは1939年にヴァンデンプラ社へ運ばれ、オープンツアラー・ボディが架装された。

その際、モリニューはデザイナーらしく細かな仕上げを指定している。レッドレザーの内装に、このハニーサックルの塗料が選ばれたのだ。

第一次大戦後に才能を開花させた彼は、英国貴族や映画俳優をエレガントに魅せるファッションで名声を集めた。「テイラーは着る人に何かを与えるスーツを作るべき。女性が着るドラスなら、それ以上のことを」。という言葉を残している。

戦時中に売りに出されたベントレー

彼の考えが、スポーツツアラーにも活かされているに違いない。ダービー・ベントレーに載せられたボディは、多くがフォーマルで落ち着いたデザインだった。しかしモリニューの1台は、彼のキャリアを表すようにスタイリッシュだ。

ボディは1939年8月17日に完成したが、実際にオーナーがどれほど運転したのか明らかではない。1940年6月に拠点をフランス・パリへ移していたが、戦争が始まると石炭船に乗り込み、ロンドンへ避難している。

ベントレー4 1/4リッター・ヴァンデンプラ・スポーツツアラー(1939年/英国仕様)
ベントレー4 1/4リッター・ヴァンデンプラ・スポーツツアラー(1939年/英国仕様)

ベントレーの履歴を確認すると、B154MRは1940年には中古車の在庫リストに記載されていた。そして、ジャン・スミス・ビンガム氏へと売られている。豊かな財力で、ダービー・ベントレーを迎え入れたようだ。

夫のターバービル・スミス・ビンガム氏は、英国の高級車ディーラー、H.R.オーウェン社に勤めており、ベントレーは身近な存在だった。真新しいハニーサックルの4 1/4リッター・オープンツアラーが中古車に加わったという情報も、真っ先に知ったのだろう。

オックスフォシャー州の自宅ガレージから婦人は輝くベントレーに乗り、競争馬の厩舎を巡った。彼女の愛馬、ブレンダンズ・コテージは1939年のチェルトナム・ゴールド・カップで華々しく優勝している。

ところが、すぐに2人は離婚。B154MRのベントレーは再び売りに出された。当時の価格は1350ポンド。第二次大戦の真っ只中に、ロンドン中心部のショールームに展示される姿は、さぞ人目を引くものだったはず。

ちなみにその時期に、AUTOCARはこの4 1/4リッター・オープンツアラーを試乗テストしている。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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