「氷河期」の終わり キミ・ライコネン、20年のF1人生を語る 独占インタビュー
公開 : 2022.02.05 06:05
目立たないトロフィー WRCも経験
ライコネンの速さは初めてカートに乗った瞬間から発揮され、フォーミュラレース2年目の2000年に10戦7勝でフォーミュラ・ルノーUKのタイトルを獲得している。その結果、ザウバーでF1テストを受けることになり、2001年にはわずか23戦しかしていない21歳の若者がチームと契約したのである。
この契約には、モータースポーツの運営組織をはじめ、多くの反対意見があった。しかし、ライコネンはそのような議論にも動じず、デビュー戦のオーストラリアGPで6位入賞を果たした。報道によると、彼はレースの30分前まで眠っていて、スタートに間に合うようチームに起こされたのだという。
フェラーリエンジンを搭載したザウバーでの活躍により、ミハエル・シューマッハの後継者としてフェラーリで活躍することが期待された。しかし、2002年はマクラーレン・メルセデスと契約し、2度チャンピオンに輝いたミカ・ハッキネンと入れ替わりでシートに座る。
2005年には7勝を挙げ、ポイントランキング2位となるなど驚異的なペースを見せたものの、タイトルを手にすることはできず、ハッキネンの後継者と呼ばれることもなかった。しかし、2007年にシューマッハの後任としてフェラーリに移籍すると、すぐにタイトルを獲得する。
ところが、話題の中心はライバルのマクラーレンがマラネロのデザインをコピーしていたことや、アロンソと新人チームメイトのルイス・ハミルトンとの確執が深まっていったことなど、まったく別のところにあった。ライコネンはただひたすら冷静に、静かに結果を積み上げていく。その姿は、まるで偉大な存在になろうとしているかのようだった。
しかし、それ以降、同じ高みに到達することはなかった。2008年はチームメイトのフェリペ・マッサの影に隠れ、翌年は競争力のないマシンに足をすくわれた。フェラーリはシューマッハの後継者としてふさわしくないと判断し、2010年にアロンソを迎え入れ、彼との契約を切った。
ライコネンのF1人生は、ここで終わっていたかもしれない。彼は2年間、世界ラリー選手権に没頭し(そして多くのクラッシュを経験し)、F1とは決別したかのように見えた。だが、離れることはできなかった。2012年、ロータスと契約し、かつての(そして未来の)ルノー・ワークスチームを表彰台に返り咲かせたのだ。
ザウバーに戻ったのは「自宅に近かったから」?
2013年にはフェラーリに復帰し、今度は友人であるベッテル(ライコネンを獲得するためにロビー活動を行った)のナンバー2として実質的な参戦を果たした。5年間の在籍期間中、彼は堅実な走りを見せたが、目を見張るような活躍はほとんどなかった。勝利を挙げることもあったが、ランキングの中盤にいることの方が多かった。そして2019年、フェラーリの次の大物シャルル・ルクレールのために、再びシートを譲ることになった。
その後はアルファ・ロメオ(現ザウバー)に移籍し、3年間バトルを繰り広げた。その報酬は高かったに違いない。しかし、F1キャリアを始めたチームでそのキャリアを終えるという、単純なロマンに惹かれたわけでは決してない。
「正直なところ、ザウバーを選んだのは純粋に僕の家(スイス)に近いからで、移動の手間が省けるんだ。クルマで40分もあれば行けるし、飛行機を使う必要もない。以前は、シミュレーターを操作したり、チームと何かをするために、いろいろな国へ飛んでいかなければならなかったんだ」
ライコネンは、「僕が始めたときから働いている人がまだたくさんいる」としながらも、「僕にとって一番簡単で、一番いい選択だった」と明言する。
3.0L V10のモンスターから2.4L V8、そして現在の1.6L V6ターボハイブリッドと、3世代のパワーユニットで20年のキャリアを積んできたライコネン。だが、「特に違いはないよ」と彼は言う。
「ハイブリッドは以前と比べてとても静かになったけど、走りやフィーリングは全く変わらない。音は大きな問題で、耳栓をしてもとてもうるさかったから、実はこっちの方が好きなんだ」
同様に、お気に入りのマシンを挙げることはしないが、「悪いクルマより、まともなクルマに乗ることが多くてラッキーだった」とは言っている。