死してなお 今はなき自動車メーカーが残した名車 39選 後編 消えない灯火

公開 : 2022.02.20 06:06

デソト・モデルK(1928年)

1928年にクライスラーによって創設されたデソトは、最初の市販車として「モデルK」を発売し、ライバルの注目を集めた。発売から1年間で8万1065台を販売し、この記録は数十年間破られることがなかった。

デソト・モデルKは、同クラスのクライスラーより安く、6気筒エンジンを搭載し、ロードスターをはじめとする多くのボディスタイルが用意されていた。クライスラーの主力ブランドとして、その未来は明るいように見えた。

デソトはどうなったのか?

デソト・モデルK(1928年)
デソト・モデルK(1928年)

初期の成功は、すぐに色あせてしまった。クライスラーは1928年にダッジを買収し、どちらも大衆向けブランドとしてクライスラーの下に位置づけられたため、ブランド間でしばしば重複が見られるようになった。

デソトは1952年に半球型燃焼室を持つファイアードームV8を、1955年には「フォワードルック」というデザイン理念を採用するなど、クライスラーの他ブランドと同じように進化していった。1958年には、エドセルを終わらせた不況の影響もあって販売が落ち込み、クライスラーは1960年にデソトの閉鎖を発表した。

デューセンバーグ・モデルJ(1928年)

デューセンバーグ(Duesenberg)は、世界で最もラグジュアリーなクルマとしてモデルJを開発した。クーペ、コンバーチブル、サルーンなど、購入者の財布の中身次第で、世界各国のコーチビルダーが手がけたさまざまなボディを装着できる真っ白なキャンバスのようなものだった。

当初は自然吸気の直列8気筒エンジンを搭載していたが、1932年には最高時速160km/h以上を出せるスーパーチャージャー付きモデルも登場。モデルJは1937年までに約481台が製造された。

デューセンバーグはどうなったのか?

デューセンバーグ・モデルJ(1928年)
デューセンバーグ・モデルJ(1928年)

1937年、エレット・ロバン・コード(Errett Lobban Cord)の自動車製造業が破綻し、デューセンバーグは突如閉鎖された。オーバーンもコードも閉鎖。その後、何人もの企業家がデューセンバーグの復活を試みたが、失敗に終わっている。

俳優のゲイリー・クーパーが所有していた1935年製のデューセンバーグSSJロードスターは、2018年にオークションで2200万ドルで落札され、オークション史上最も価値のある米国車となった。

ナッシュ・メトロポリタン(1953年)

ナッシュはメトロポリタンを、欧州のセンスを取り入れた小型の「アメ車」として構想していた。ピニンファリーナにデザインを、オースチンにA40のエンジンと予備生産能力を依頼した。

こうして、米国で最も小さく、最もスタイリッシュ(?)なクルマが誕生した。1954年のモデルイヤーから販売が開始されている。セカンドカーとして購入されることも多かったメトロポリタンは、1961年に生産が終了するまでさまざまな進化を遂げ(ハドソンやランブラーなど、いくつかの名前で販売された)、現在に至っている。

ナッシュはどうなったのか?

ナッシュ・メトロポリタン(1953年)
ナッシュ・メトロポリタン(1953年)

1954年、ナッシュとハドソンは、当時米国史上最大の企業合併であるアメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)となった。米国第4位の自動車メーカーである。ナッシュの名前は1957年に使われなくなり、AMCは1987年にクライスラーに買収された。

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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