死してなお 今はなき自動車メーカーが残した名車 39選 後編 消えない灯火

公開 : 2022.02.20 06:06

アウトウニオン1000SP(1957年)

アウトウニオン1000SPの外観は、標準の1000との関連性を示すものが少なく、むしろ洗濯で縮んだ初代フォード・サンダーバードのような印象であった。2ストローク3気筒というベーシックなエンジンは、ファミリー層向けの1000と共通だったが、モデル固有の違いもある。

シュトゥットガルトのコーチビルダー、バウアは1958年から1965年にかけて、1000SPを約5000台生産した。また、1961年からは1000 SPをベースにしたコンバーチブルを約1640台生産している。

アウトウニオンはどうなったのか?

アウトウニオン1000SP(1957年)
アウトウニオン1000SP(1957年)

1969年にNSUと合併し、その直後に両社ともフォルクスワーゲンに吸収された。アウディはこの合併によって誕生したのである。現在、両ブランドは休眠状態にあるが、アウディはNSUの拠点であったネッカーズルムで、フォルクスワーゲンはアウトウニオンのルーツがあるツヴィッカウでクルマを製造している。

チェッカーモーターズ・タクシー(1960年)

1961年に発売されたチェッカー・タクシー(A9/A11)は、今もなお米国を代表するタクシーである。何十年もの間、外観を大きく変えることなく生産され続けたことで、スーパースターのような地位を確立した。チェッカーは長年にわたりタクシー市場をほぼ独占していたため、流行を追った新鮮なデザインや新機能で顧客を呼び込む必要がなかったのだ。

1970年代、ニューヨークをはじめとする主要都市でタクシー規制が緩和され、同社のビジネスが脅かされるようになった。チェッカーは個人やホテルチェーンにも少数を販売していたが、顧客の大半はタクシー運転手であり、より新しく、より速く、より効率的な新型車が流入してくることで、市場シェアが低下してしまった。

チェッカーモーターズはどうなったのか?

チェッカーモーターズ・タクシー(1960年)
チェッカーモーターズ・タクシー(1960年)

GMの元社長エド・コールは、引退後チェッカーに投資したが、1977年に彼の死後、会社の若返り計画は頓挫した。モデルの老朽化と財政難に直面したチェッカーは、1982年に閉鎖。同年の生産台数は2000台であった。

アンフィカー・モデル770(1961年)

1961年に発表されたアンフィカー770は、ボートとクルマのハイブリッドで、直接的なライバルは存在しなかった。リアに搭載されたトライアンフ製の4気筒エンジンは、後輪またはリアバンパー下の樹脂製プロペラを回転させる。操舵は陸上、水上を問わず前輪で行う。驚くほど多用途で、ありがたいことに完全防水だ。

しかし、アンフィカーが経済的に生き残るには、あまりにも小さいニッチな市場であった。西ドイツで約4000台が生産された後、1967年に生産が終了。そのうちの1台は、リンドン・ジョンソン大統領に献上された。ジョンソン大統領は、ブレーキが故障したふりをして湖に突っ込み、何も知らない訪問者をからかうのが趣味だったそうだ。

アンフィカーはどうなったのか?

アンフィカー・モデル770(1961年)
アンフィカー・モデル770(1961年)

アンフィカーはモデル770の生産を中止した後、自動車産業から身を引いた。現在では、水陸両用乗用車を量産している会社はない。

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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