死してなお 今はなき自動車メーカーが残した名車 39選 後編 消えない灯火

公開 : 2022.02.20 06:06

ユーノス・ロードスター(1989年)

マツダMX-5ミアータとして世界中に知られるこのクルマは、本国日本ではユーノス・ロードスターという名前で販売されていた。ユーノスブランド最初のモデルで、内外装のエンブレム以外はマツダブランドとほぼ同じである。ユーノスに軽快な後輪駆動のオープンカーを設定することで、そのブランドを知ってもらおうという狙いがあった。

ユーノスブランドは1990年代に姿を消し、ロードスターの後継(NB)はマツダとして販売されるようになった。意外なところでは、ユーノスがシトロエンの国内販売権を獲得していたこともあり、ロードスターはBXやザンティアなどとともにショールームに並んでいた。

ユーノスはどうなったのか?

ユーノス・ロードスター(1989年)
ユーノス・ロードスター(1989年)

マツダがユーノスを設立したのは1989年のこと。5チャネル戦略の一環で、ライバルのトヨタ日産と同じようなことをやっていたのだ。ユーノスは、サブブランド・ヒエラルキーの最上位に位置づけられた。オートザム同様、1990年代にマツダがチャネルを整理したため、消滅した。

興味深いことに、マツダの経営陣はレクサスや他の高級車メーカーに対抗し、ユーノスのさらに上位に位置するアマティというブランドの立ち上げも計画していたようだ。V12エンジンを搭載したフラッグシップモデル「1000」(仮称)も発売予定だった。しかし、1992年、日本経済が大きな打撃を受けたため、このプロジェクトは中止となった。

サターンSL(1990年)

サターンは、1990年にSLを発売し、これまでとは違うタイプの自動車会社として活動する計画を明らかにした。SLは、グリルのないフロントエンド、ブランド固有のプラットフォーム、米テネシー州スプリングヒルの新組立工場で生産されたことなどから、GMの他ブランドとは全く異なる外観を持つモデルである。

さらに奇妙なことに、SLには樹脂製のボディパネルが採用されていた。鉄製部品よりも軽く、耐久性があり、安価であるという理由で選ばれたのだ。このように、日本の自動車メーカーを相手にしたサターンのユニークな戦略はまずまずの成果を上げ、1993年9月に50万台を達成した。

サターンはどうなったのか?

サターンSL(1990年)
サターンSL(1990年)

サターンは、2000年代のGMの泥沼の中でアイデンティティを失い、横行するリバッジ戦略の犠牲となった。ルノーの支援を得てサターンを救おうとしたペンスキーの試みは失敗に終わり、2010年初めに閉鎖された。

オートザムAZ-1(1992年)

軽自動車規格に基づいて、初代マツダ・ロードスターと同じメンバーが作り上げたオートザムAZ-1。ガルウィングドアやミドマウントエンジンなど、90年代最速のスーパーカーを意識しつつ、日本の都会的なサイズ感が特徴だ。

スズキが開発した64psの3気筒ターボエンジンは、この小さなクルマを動かすのに十分なパワーを持っていた。軽自動車の中で最もワイルドなスポーツカーの1つとして記憶されているAZ-1は、1995年に引退した。

オートザムはどうなったのか?

オートザムAZ-1(1992年)
オートザムAZ-1(1992年)

1989年、5チャンネル販売戦略の一環としてマツダが立ち上げたオートザムブランドは、独自のモデルと店舗網を有していた。オートザムブランドを販売しつつ、ちょっと不思議なことに、ランチアのモデルも国内で販売していた。マツダは1990年代、シンプルさを求めてサブブランドを徐々に廃止し、オートザムも販売店網の名前となり、姿を消した。

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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