エンジンはDB5 ヴァンテージ仕様 アストン マーティンDB4 価値あるモディファイ 前編

公開 : 2022.03.26 07:05  更新 : 2022.08.08 07:13

DBR2で試された新型6気筒ユニット

先輩技術者のジョン・ワイアー氏とジョック・スターリング氏の元で働き始めたタデックが、一番最初に取り組んだのが2.9L直列6気筒エンジンの改良。新しいDB Mk IIIへの搭載が計画されていた。

これはベントレーを創業し、アストン マーティンへ移った技術者のウォルター・オーウェン(W.O)・ベントレー氏が設計したユニット。1953年のDB2のために開発されたものだ。

アストン マーティンDB4 シリーズ1(タデック・マレク仕様/1959年)
アストン マーティンDB4 シリーズ1(タデック・マレク仕様/1959年)

ちなみにこの時にも、タデックは中古のアストン マーティンDB2を手に入れ、自分仕様に改良している。Mk III用エンジンに、マセラティ製の5速トランスミッションが組まれていた。

1955年、次期モデルとなるDB4の開発がスタート。彼は新しい直列6気筒エンジンを設計し、1956年にテスト運転が開始された。1957年に発揮した最高出力は172ps。アストン マーティンがDB4で目指していた、243psとは大きな開きがあった。

新しい6気筒ユニットは、レーシングカーのDBR2へひと足先に搭載されたが、彼はその結果にも満足できていなかった。レーシングチームを率いていたジョン・ワイアー氏も、より軽量なエンジンが必要だと考えていた。

本来、エンジンブロックはスチールで設計されていたが、アルミニウムへの変更が決まる。だが、タデックはアルミ製ブロックの開発経験はなかった。

その結果、高速道路での走行など、当初は長時間の高回転へは充分に耐えることができなかった。内部クリアランスが広がりやすく、油圧が低下し、深刻な問題を引き起こす可能性が拭えなかった。約8.5Lのオイルサンプを備えていても。

DB5用4.0Lエンジンの開発に登用

当時のタデックは、開発をスタッフへかなり頼っていた。その時代の小さな規模を考えれば、彼に責任のすべてを負わせることは適切ではないといえる。

アストン マーティンDB4は1958年から1963年までの間に改良が加えられ、最終的にシリーズ5まで進化している。エンジンブロックの問題にも、解決策が施された。

アストン マーティンDB4 シリーズ1(タデック・マレク仕様/1959年)
アストン マーティンDB4 シリーズ1(タデック・マレク仕様/1959年)

今回ご紹介するアストン マーティンDB4 シリーズ1は、1959年10月下旬に、フランス南部のサントロペに住むJ.Cロイ博士へ納入されている。クロームメッキのワイヤーホイールにアイス・ブルーの塗装が施された、左ハンドル車だった。

タデックの話では、オイルサンプに穴が空きエンジンが固着するまで、ロイはDB4を楽しんだそうだ。動かなくなると、パリの代理店を通じてアストン マーティンが新たに拠点とした、英国中部、ニューポートパグネルまで戻ってきた。

アストン マーティンは、700ポンドでDB4を下取りした。ロイは、新しいDB4を買い直したという。

公式な記録では、買い取ったDB4は主にDB5用4.0Lエンジンの開発に登用されている。だが、どこまでが試験としてアストン マーティンによって改造された部分で、どこまでが個人的にタデックが手を加えた部分なのかは、判別がつかない。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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