DOHCの小粋なオープン フィアット1500S カブリオレ x アルファ・ロメオ・ジュリア・スパイダー 前編

公開 : 2022.04.03 07:05

戦後の量産モデルとして際立って魅力的

ジュリアでは、より大きいエンジンをかわすため、ボンネットにパワーバルジを獲得。新しい105シリーズのジュリア・サルーンと肩を揃える狙いがあったようだが、コードネームは101シリーズから変わっていない。

このジュリエッタとジュリア・スパイダーは、戦後間もないアルファ・ロメオの量産モデルとしては、際立って魅力的な存在だった。モデルライフを通じて、合計2万7000台以上が販売されている。

アルファ・ロメオ・ジュリア・スパイダー・ヴェローチェ(1964〜1965年/欧州仕様)
アルファ・ロメオ・ジュリア・スパイダー・ヴェローチェ(1964〜1965年/欧州仕様)

その好調ぶりを同じイタリアの巨人、フィアットが傍観するはずもない。動きは慎重だったが、1955年に48psのサルーン、1100 TVをベースにした1100スパイダーが発売された。

クラシカルなスタイリングに、大きく湾曲したフロントガラスを備え、最高速度は130km/hと低調。市場の充分な反応は得られず、生産台数も3500台以下に留まった。

同じ頃、技術者のエルネスト・マセラティ氏と、彼が率いるオスカ社は仕事を求めていた。エルネストはフィアットの主任技術者、ダンテ・ジアコーサ氏と接触。スパイダー用として、レーシング・ツインカムエンジンの量産仕様を生産する契約を取り付けた。

このオスカ社との提携は、数年後のフィアット・ディーノへ展開するだけでなく、ツインカムエンジンを搭載した1967年のフィアット124 クーペやスパイダーへも発展した。そして、このより活発なカブリオレも生まれている。

スタイリングはピニンファリーナが担当

フィアットとオスカとの協力による、1500S カブリオレの発売は1959年。1200サルーンのモノコック構造をベースとし、サスペンションや駆動系も受け継がれている。

スタイリングは、ピニンファリーナが担当。威勢のいいボンネットスクープで、プッシュロッド・エンジンの1200サルーンとの区別化が図られた。

フィアット・オスカ1500S カブリオレ(1959〜1963年/欧州仕様)
フィアット・オスカ1500S カブリオレ(1959〜1963年/欧州仕様)

エンジンは1491ccのツインカム・ビッグバルブ。クランクやコンロッド、ピストンは鍛造品が用いられた。基本的に他のフィアットとは異なるユニットで、ボアとストロークはスクエア比率が取られている。

フィアットの技術者、アウレリオ・ランプレディ氏は、デュアルチョーク・シングルキャブレターと、アルミではなくスチール製のシリンダーブロックを指定。本来の能力は、充分には発揮できなかった。

オスカ社製のDOHCエンジンは、81psを発揮。1200サルーンに対し、20km/h高い最高速度を与えた。0-97km/h加速の時間は、約半分に縮めている。

当時の価格は約500ポンド高く、限られた人が1500Sに共感。1963年から1966年に販売されたフェイスリフト版の1600Sと併せて、3089台が売れている。

ボディシェルの生産を請け負ったのは、ピニンファリーナ社。トリノ・グルリアスコ工場で、ジュリア・スパイダーやプジョー404 カブリオレなどと一緒に成形された。ちなみに、同社ではクーペボディも生産していた。

ツインカムエンジンの1500Sには当初、格上の1800/2100サルーン用ドラムブレーキと15インチ・ホイールが奢られた。1960年からは、四輪ともにディスクブレーキへ変更されている。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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