自動車史上最悪の失敗 エドセル たった3年で消えた幻のブランド 前編

公開 : 2022.04.23 20:05

「失敗」の代名詞として悪名高いエドセル。僅か3年という短命に終わった悲運の自動車ブランドを振り返ります。

悪名高い悲劇

かつて、企業の大失敗といえば「エドセル」の一言に尽きた。

60年以上前、フォードは2億5千万ドル(現在の貨幣価値で25億ドル)を投じて新ブランドを立ち上げたが、それは史上最悪の立ち上げとして知られることになる。さまざまな企業にとってケーススタディとなり、その名前は失敗の代名詞となった。

エドセル・サイテーション
エドセル・サイテーション

これは、エドセルがどのように生まれ、1959年11月19日にどのように倒れたか、そしてその失敗が皮肉にもフォードの素晴らしい成功の礎となったかを描いた物語である……。

GMとの戦い

エドセル部門は最終的には失敗に終わったが、ブランド立ち上げの背景には健全な考え方があった。50年代半ば、フォードはフォード、マーキュリー、リンカーンの3つのブランドを持っていたのに対し、ゼネラルモーターズ(GM)はオールズモビル、ポンティアックビュイックの中級車ブランドと、シボレーキャデラックの高級車ブランド、計5つを抱えていたのだ。

GMが3つも中級車ブランドを擁していたのに対し、フォードはマーキュリーしか持っていなかった。また、マーキュリーも高級車ブランドのリンカーンも収益性が低く、GMの高収益ブランド群とは全く対照的であった。

フォードの宿命のライバルであるGMは、オールズモビル、ポンティアック、ビュイック、シボレー、キャデラックを揃え、あらゆる市場ニーズに応えようとしていた。
フォードの宿命のライバルであるGMは、オールズモビル、ポンティアック、ビュイック、シボレー、キャデラックを揃え、あらゆる市場ニーズに応えようとしていた。

この問題は、今に始まったことではない。フォードは1920年代から、マルチブランドのGMの台頭とともに、この問題に取り組んできたのだ。フォードが本格的な反撃を開始するのに30年もかかった理由は、ドキュメンタリードラマの題材にふさわしい。嫉妬、強引さ、傲慢さ、機能不全な帝国、不適切な決定、少数の勝者、多数の敗者を生み出したのである。

ヘンリー・フォードの固執

T型フォード(モデルT)は、自動車を「民主化」させたクルマであり、その生みの親こそヘンリー・フォードである。フォルクスワーゲンビートルよりも売れ行きがよく、ヘンリー・フォード(1863~1947年)はちょっとした小国よりもお金持ちになった。

しかし、フォードは後年、自分のやり方を変えることを拒み、彼自身をセレブにまで押し上げたT型も変えようとしなかった。1927年、フォードの米国市場シェアは、1922年の48%から19%に急落していた。T型は古くなり、新しい富裕層が買い替えを進めていた。

ヘンリー・フォード(1863~1947年)とT型フォード
ヘンリー・フォード(1863~1947年)とT型フォード

GM「あらゆる財布と目的に合ったクルマ」

我々クルマ好きがこれほど長い間、多くの選択肢を享受してきたのは、アルフレッド・P・スローン(1875~1966年)の存在が大きい。彼は、1920年代のGMと、その共同創設者である買い物好きのウィリアム・C・デュラント(1861~1947年)が蓄積した、赤字ブランドの寄せ集めを復活させた立役者である。

スローンは、ブランドとモデルを階層的に配置し、「あらゆる財布と目的に合ったクルマ」を生産した。各ブランドは車体を巧みに共有し、それぞれが独特の装飾を誇示していた。

アルフレッド・P・スローン(1875~1966年)
アルフレッド・P・スローン(1875~1966年)

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ブレンナー

    Richard Bremner

    英国編集部
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    平成4年生まれ愛知在住。幼少期から乗り物好き。住宅営業や記事編集者といった職を経て、フリーランスとして自動車メディアで記事を書くことに。「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。

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