自動車史上最悪の失敗 エドセル たった3年で消えた幻のブランド 前編

公開 : 2022.04.23 20:05

頑固親父の説得

ヘンリー・フォードの息子エドセル・フォード(1893~1943年、運転中の写真)は、最終的に父親を説得し、T型フォードからA型フォードに切り替えるよう促した(T型の終焉からA型の登場まで、あまりにも突然だった)。彼はまた、父親を説得して、低迷していた高級車ブランドのリンカーンを購入し、見事に復活させた。

エドセル・フォード(1893~1943年、運転席)
エドセル・フォード(1893~1943年、運転席)

反撃の狼煙

1936年、流線型でアールデコ調のボディにV12エンジンを搭載するリンカーン・ゼファーは、フォード初の中価格帯モデルだった。エドセル・フォードが考案したこのモデルは、リンカーンを救うには十分な売れ行きを示したが、セグメントを独占するには価格が高すぎた。

斬新なデザインとは対照的に、やや粗雑なサスペンションと時代遅れの機械式ブレーキは残念なもので、V12エンジンの信頼性にも問題があったものの、大きな成功を収めた。

リンカーン・ゼファー
リンカーン・ゼファー

続くマーキュリーの立ち上げ

御曹司エドセルが2度目の市場開拓を行ったのは、1939年にマーキュリーという新しいブランドを作ったときだ。当初、彼はマーキュリーに「フォード」の名前を付けることに固執し、高級化の足かせとなっていた。しかし、フォードのバッジはすぐに外され、マーキュリーは第二次世界大戦前に順調なスタートを切ることになる。

こうした成功にもかかわらず、ヘンリーは一人息子に苦難の道を歩ませた。1943年、エドセルは胃癌により49歳の若さでこの世を去った。

フォード・マーキュリー
フォード・マーキュリー

GMを追え

エドセルが亡くなり、ヘンリー・フォードが引退した後、エドセルの28歳の息子ヘンリー・フォード2世(1917~1987年、写真は祖父と)が1945年にCEOに就任する。しかし、会社は体制も新製品も幹部も不足しており、祖父は時に偏執的に、時に残忍な支配で会社を切り崩しながら経営していた。

第二次世界大戦が終わる頃、フォードにはまともな経営計画がなく、技術、財務、設計部門はほとんど存在しなかった。工場は混乱し、平和の到来とともに軍需品の注文はすぐに途絶えてしまった。フォードは、スローンの後任としてGMのアーネスト・R・ブリーチ(1897~1978年)を引き抜き、GMの組織構造の模倣に着手する。

ヘンリー・フォード(左)とその孫ヘンリー・フォード2世(右)
ヘンリー・フォード(左)とその孫ヘンリー・フォード2世(右)

10人の「神童」

ヘンリー・フォード2世はまた、元米国陸軍航空部隊の将校たちを採用した。ビジネススクールを卒業し統計チームに勤めていた彼らは、原価管理や統計解析のアドバイザーであり、会社にはない専門知識を持っていた。

「ウィズ・キッズ(神童)」と呼ばれるようになった彼らは、すぐに財務部門を支配下に置いて、エドセル・ブランドに大きな影響を与える社内の縄張り争いの主役となった。右端に写っているのは、最も有名なウィズ・キッズの1人、ロバート・マクナマラである。

フォードの財政回復を助けた「ウィズ・キッズ」。右端には、かのロバート・マクナマラ(後述)が写っている。
フォードの財政回復を助けた「ウィズ・キッズ」。右端には、かのロバート・マクナマラ(後述)が写っている。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ブレンナー

    Richard Bremner

    英国編集部
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。

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