自動車史上最悪の失敗 エドセル たった3年で消えた幻のブランド 後編

公開 : 2022.04.23 20:06  更新 : 2022.04.24 08:30

「失敗」の代名詞として悪名高いエドセル。僅か3年という短命に終わった悲運の自動車ブランドを振り返ります。

敬意か、軽薄か

広告代理店のFoote, Cone & Belding(FC&B)社は、6000もの名称を6冊の本にまとめて、フォードに贈った。元陸軍大佐のリチャード・E・クラフブ(写真左)は、これをわずか10個に仕分けるよう言われ、驚いたという。

候補の中には、サイテーション、コルセア、ペイサー、レンジャーと、後に車名として使われるものも含まれていた。これらは、アーネスト・ブリーチが委員長を務める委員会に提出されたが、どれもお気に召さなかった。

リチャード・E・クラフブとエドセルのロゴマーク
リチャード・E・クラフブとエドセルのロゴマーク

信じられないことに、ドロフ(Dorf、フォードの逆さ表記)、ベンソン(フォード家のファーストネーム)、エドセルといった名前も候補に挙げられている。フォード本人はもちろん、その息子も反対したようだ。しかし、CEOであるヘンリー・フォード2世は説得に応じ、1956年11月8日にエドセルに正式決定。ロゴマークもすぐに描き上げた(写真右)。

爆弾を抱えた製品計画

フォードの2シーター、サンダーバード(写真)の販売不振は、エドセルに大きな影響を与えることになった。計画では、サンダーバードを4シーターのハードトップにして、ボディオンフレーム構造からモノコック(ユニボディ)構造にする手筈だったが、この開発で他社に遅れをとってしまう。

サンダーバードだけをモノコックで作るのは無理なので、58年型リンカーンもモノコックに変更された。その結果、マーキュリーはエドセルの上位モデルである「スーパーマーキュリー」のボディオンフレームを作ることができなくなった。マーキュリーとスーパーマーキュリーは同じ基本構造を持つことになった。

フォード・サンダーバード
フォード・サンダーバード

プレス発表会

3日間にわたるエドセルのメディア向け発表会には、250人のジャーナリストと、珍しくその妻たちも参加した。デザインセンター内に作られたナイトクラブでは、スタント走行や試乗会が行われ、71人の記者に地元ディーラーまでの送迎がプレゼントされた。

送迎の途中、オイルパンが外れてエンジンが止まったり、ブレーキが利かなくなったりして、ドライバーをハラハラさせたという。

エドセルのプレス発表会
エドセルのプレス発表会

マクナマラの刃

先述したように、ウィズ・キッドとして最も有名なのはロバート・マクナマラ(1916~2009年)で、1956年までに急速な出世を遂げていた。大望を抱いていたが、彼の厳格な統計分析では、ギミックやパフォーマンスに興奮する消費者の「気まぐれ」を説明できないことがしばしばあった。販売、利益、制御がマクナマラの原動力であり、その論理的観点から、中価格帯のクルマは大きく売れなければ意味がないと考えていたのである。

驚くべきことに、マクナマラはエドセルの失敗を待たずして、フォードでの社内発表会のまさにその夜、広告代理店FC&Bのフェアファックス・コーン(1903~77年)に、ブランド廃止計画を口にしていたのである。

ロバート・マクナマラ
ロバート・マクナマラ

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ブレンナー

    Richard Bremner

    英国編集部
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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