自動車史上最悪の失敗 エドセル たった3年で消えた幻のブランド 後編
公開 : 2022.04.23 20:06 更新 : 2022.04.24 08:30
Eデイ – 1957年9月4日
この日、大規模なマーケティング・キャンペーン(写真)に促され、285万人という驚異的な数の米国人がエドセルのディーラーに足を運んだ。広告で謳われていた車輪の革命は実現しなかったものの、多くの見どころがあった。
イノベーション
ステアリングホイールに取り付けられたテレタッチ・トランスミッションボタン、あらかじめ設定された速度を超えると赤く光る回転ドラム式スピードメーター、あまり目立たないが自動調整式ブレーキ、暖機運転を助ける3段式エンジン冷却システムなどが目新しい機能だった。
こうした機能の数々は、時代をはるかに先取りするものだった(一部の機能は使用中に問題を起こすなど不十分な点もあった)。しかし、エドセルは、1955年にフランスで誕生したシトロエンDSのように、20年の歳月を一気に突き抜けるようなクルマではなかった。
同族経営
この写真では、ヘンリー・フォード2世(運転席)が、弟のベンソン・フォード(中央)とウィリアム・’ビル’・クレイ・フォードと一緒に写っているのがわかる。ビル・フォードは、1956年にフォードが株式市場に上場した際、当初予定していた25%ではなく、40%の議決権付き株式を一族が保有することに成功した。
これにより、現在も続く同族経営が確実なものとなった。
幅広い車種展開
フォードの工場が十分な数のエドセルを生産できていたならば(生産には深刻な問題があった)、数百万人の米国人が、2種類の基本サイズからセダン、ハードトップ、コンバーチブル、ステーションワゴンの4つのモデルファミリーに分かれた計18種類ものエドセルを見られたことだろう。
皮肉なことに、これらのモデルには、エドセル部門の名称として以前提案されていたサイテーション、コルセア、ペイサー、レンジャーという名称が与えられた。これが、フォードが2億5000万ドルの資金を投じ、6つの専用工場を建設した代価である。
販売
初日には6500台以上、その後10日間で4095台が販売された。しかし、その後売れ行きは低迷する。テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」では、ビング・クロスビーとフランク・シナトラを起用した高価なプロモーションを行ったが、勢いを取り戻すには至らなかった。
最も深刻なのは、戦後長く続いた米国の好景気が一段落し、中価格帯セグメントがこの2年間で40%も縮小してしまったことだ。10月には、年間販売台数が目標の半分の10万台にまで落ち込んでいた。