自動車史上最悪の失敗 エドセル たった3年で消えた幻のブランド 後編

公開 : 2022.04.23 20:06  更新 : 2022.04.24 08:30

市場の変化

市場の変化は、マクナマラにとってエドセルを潰す正当な理由となる。景気は落ち着きを見せ、消費者はより小さく、より経済的なモデルを求め始めたのだ。また、多くの人が一家に1台のセカンドカーを望み、V8エンジンの大排気量車を必要としなくなった。エドセルは最も長いもので5560mm、小さいものでも5415mmと、「コンパクト」とは言い難いサイズだった。

実は当時、フォード・ファルコンと並行してエドセルBというモデルも開発されていた。比較的低価格のコンパクトセダンであり、こちらの方が市場ニーズに近かった。

コメット(独立車種)
コメット(独立車種)

エドセルBは、エドセルの廃止によってリンカーン・マーキュリー部門に移管され、当初はコメット(写真)としてノーブランドで販売された。テールライトやダッシュボードのデザインにエドセルの面影を見ることができる。初年度の販売台数11万6331台は、皮肉にもエドセルの3年間の合計を上回る。

59年型

1956年末、リフレッシュにより1959年型の開発が開始。当初は、初代向けに考案された人間工学に基づく革新的なコックピットなど、意欲的なリニューアルが計画されていた。しかし、そこには別の力が働いていた。

エドセルへの逆風が強まる中、1957年9月にマクナマラが商品企画責任者に就任。1959年型は縮小され、1959年初頭にはエドセルはマーキュリー・エドセル・リンカーン部門(M-E-L)に組み込まれた。数千人のホワイトカラーの従業員は解雇され、ビッグボディ仕様も削除された。

1959年型エドセル・レンジャー
1959年型エドセル・レンジャー

ディーラーの絶望

販売不振にもかかわらず、エドセル専売店のネットワークは拡大を続け、1959年2月のピーク時には1568店にまで達した。中には、契約と同時にブランド消滅の噂を聞きつけたディーラーもいたという。

M-E-Lのゼネラル・マネージャーであったジェームス・ナンス(1900~1984年、写真)は、彼らの苦境に非常に同情的であった。彼らの多くは泣きながらオフィスにやってきて、多くはマーキュリーのフランチャイズを引き受けた。

ジェームス・ナンス(1900~1984年)
ジェームス・ナンス(1900~1984年)

ナンスはエドセルを存続させようとしたが、マクナマラの策略で1958年8月に解雇された。数百のディーラーが多大な投資をしていたにもかかわらず、エドセルの勢いは急速に衰え、フォードのコミットメントも失われていった。

淘汰

1960年型では、ラインナップはほとんど意味を為さないまでに縮小された。残ったのはレンジャー(セダン、ハードトップ、コンバーチブル、写真のワゴン)のみで、デザインもフォードを強く意識したものとなっている。縦型グリルはなくなり、ポンティアックに似た分割式フロントグリルに変更。フロントグリルよりも縦型のツインテールが印象的なクルマであっら。

1960年型エドセルは1959年10月15日に発表された。この型は11月19日に2846台目が出荷され、これを最後に生産終了。合計11万810台で、その短い歴史に終止符を打った。

エドセル・レンジャー・ビレッジャー
エドセル・レンジャー・ビレッジャー

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ブレンナー

    Richard Bremner

    英国編集部
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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