自動車史上最悪の失敗 エドセル たった3年で消えた幻のブランド 後編
公開 : 2022.04.23 20:06 更新 : 2022.04.24 08:30
失敗の余波
フォードの2億5千万ドルの投資のうち、約1億ドルが失われ、残りは工場に費やされたが、これが意外なところで活かされることになる。1959年に発売されたコンパクトなファルコンはそこそこヒットしたが、1964年4月に登場する2ドアのマスタングに比べたら大したことはない。
フォードは、マスタングの初年度の販売台数を10万台と低く見積もっていたが、意図的に売れやすい価格設定にした。ヘンリー・フォード2世が誇らしげにマスタングを発表した日(写真)には、当日だけで2万2千台の注文を受けた。
初代マスタングは発売初年度に41万7000台を販売し、当時としては史上最速の売上記録となった。これは、数年前にエドセルのためにミシガン州とカリフォルニア州サンノゼに増設した工場の能力があったからこそ実現できたことだ。
なぜ失敗したのか?
その名称、論争の的となったグリル、過大な期待、品質の低さ、そして不景気による市場縮小などがエドセルの失敗の原因だろう。しかし、1950年に1億5100万人だった人口が1970年には2億300万人となり、団塊世代が急増したことで、米国の豊かさと自動車への渇望は広い意味で高まり、市場は回復していたはずである。
さらに、エドセルをマーキュリーの領域に位置づけ、独占的な販売網を構築し、既存顧客の層を奪ってしまったことが大きな誤りであった。フォード・ブランドが高級車を導入したことも足かせとなった。しかし、何よりも最悪なのは、数字はわかってもクルマを買う心理がわかっていないような人物が率いる、懐疑的な経営陣が長期的なコミットメントを欠いていたことである。
人々のその後
ヘンリー・フォード2世は1979年までフォードの経営に携わり、1987年に70歳で亡くなるまで、同社の支配的な立場にあった。
ロバート・マクナマラは、一時フォードの社長になったが、その後ジョン・F・ケネディ大統領、リンドン・B・ジョンソン政権下で国防長官に抜擢された。その中で彼は、もっと飛散な結果を伴う、不運な方向へと巻き込まれていく。ベトナム戦争である。その後、世界銀行の総裁となったが、ここでもエドセル時代の批判に耐えなければならなかった。2009年、93歳で死去。
デザイナーのロイ・ブラウンは、最後までエドセルを守り抜こうとしたが、この失敗をきっかけにヨーロッパ・フォードに移り、コルティナで大成功を収めた。1958年製のグレーと白のエドセル・ペイサーを最期まで乗り続け、見知らぬ人から買いたいと言われることもあったそうだ。そんなときは、「1958年、君はいったいどこにいたんだい?」と返したという。2013年、95歳でこの世を去った。