最上級コンバーチブル ロールス・ロイス・シルバークラウドIII キャデラック・シリーズ62 前編

公開 : 2022.06.26 07:05  更新 : 2022.08.08 07:08

サルーンのボディシェルを職人が加工

一方で、ロールス・ロイスは1955年から1965年にかけて生産されたシルバークラウドに、キャデラック譲りのハイドラマティックと呼ばれるオートマチックを採用。従来以上に高速道路へ最適化されたモデルとなった。

やや小さめのシルバードーンとは異なり、シルバークラウドは不足なく大きく、アメリカの一般道でも他を圧倒する存在感を放った。何しろ当時は、普通のフォードシボレーですら、5mx2m以上のフルサイズだった。

ロールス・ロイス・シルバークラウドIII アダプテーション・ドロップヘッド・クーペ(1962年/英国仕様)
ロールス・ロイス・シルバークラウドIII アダプテーション・ドロップヘッド・クーペ(1962年/英国仕様)

新しい6230ccのV8エンジンを搭載した1960年式シルバークラウドIIは、裕福なアメリカ人にとっても不満のない動力性能を与えた。実際、コンバーチブルの多くは、大西洋を超えて北米市場へ輸出された。

俳優のサミー・デイビス・ジュニアやトニー・カーティスも、オーナーの1人。裕福な英国人も、雨がちな風土の中で楽しんではいたけれど。

多くのロールス・ロイスと同様に、1959年から1963年にかけて作られたシルバークラウドのアダプテーション・ドロップヘッド・クーペには、見た目以上の内容が与えられている。特にその美しいボディは、注目に値する。

最初からルーフレスで作られたのではない。プレスド・スチール社からノーサンプトンのコーチビルダー、HJミュリナー社へサルーンのボディシェルが運ばれ、職人が加工したものだった。専用のスチールパネルで、見事に仕上げられていた。

V8で人気を掴んだシルバークラウド

HJミュリナー社では、ルーフとBピラーを切断。フロントドアを延長し、ソリッドマウントでボディをシャシーに固定して、クルーへ送り戻した。

そこで塗装と配線、内装のトリミングなどが施されると、再びHJミュリナー社へ。PVC製のリアウインドウと内張りが付いた、ソフトトップが架装された。電動の開閉機構は当初オプションだったが、後に標準装備となっている。

ロールス・ロイス・シルバークラウドIII アダプテーション・ドロップヘッド・クーペ(1962年/英国仕様)
ロールス・ロイス・シルバークラウドIII アダプテーション・ドロップヘッド・クーペ(1962年/英国仕様)

ダッシュボードはサルーンと共通。ベンチタイプのフロントシートも同様だが、約100mm幅の狭いリアのベンチシートにアクセスしやすいよう、約100mm前方にずらされている。

1959年4月のニューヨーク・モーターショーで、直列6気筒エンジンのシルバークラウドIと、エンブレム違いのベントレーS1のドロップヘッド・クーペがデビュー。だが短命で、ロールス・ロイスが13台、ベントレーは2台しか作られていない。

その半年後にV8エンジンを載せたシルバークラウドIIとS2が登場。アメリカでの人気が上昇し、ロールス・ロイスが74台、ベントレーは30台届けられた。

最初にドロップヘッド・クーペのスタイリングを手掛けたのは、ロールス・ロイス・グループに属していたパークウォード社。既存の4ドアサルーンをベースに、短時間で効果的に、最上級のオープン仕様を作ることが目指された。

しかし同社はあまり乗り気ではなく、1958年3月にベントレーS1のプロトタイプ1台のみが形になった。その後、1959年にHJミュリナー社がグループとして合併。カタログに載る量産モデルとして、アダプテーション・ドロップヘッド・クーペの販売が決まった。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

最上級コンバーチブル ロールス・ロイス・シルバークラウドIII キャデラック・シリーズ62の前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事