地中海沿いに1万3000km走破 モーリス・ミニ・マイナーMk1 貴重な初期の生存車 前編

公開 : 2022.07.02 07:05

基本メカニズムは量産モデルと同一

本格的に量産が始まる前に工場で組み立てられた、プロトタイプに近い667 GFCのミニ・マイナー Mk1には、長旅に向けた必要最低限の手が加えられた。それでも、基本的なメカニズムは量産モデルと同一だった。

今から60年以上前の、舗装が不完全な道へ対応するため、ボディの下側にはアンダーガードが装備された。燃料タンクは航続距離を伸ばすため、予備の1本が追加された。さらに北アフリカの酷暑に耐えるよう、輸出仕様の6枚ブレード・ファンが組まれた。

モーリス・ミニ・マイナー Mk1(1959年/英国仕様)
モーリス・ミニ・マイナー Mk1(1959年/英国仕様)

夏も終盤を迎えていた、1959年8月26日。レーシングドライバーのジャック・ブラバム氏がスタートフラッグを振り、真っ赤なミニはロンドン・ロイヤル・フェスティバル・ホールを出発した。

若きバーカーとリヴィエールは英国を離れ、フランス北部の海岸にある街、ル・テュケ・パリ・プラージュへ。英国では追跡中のパトカーを追い越し、ドイツではアウトバーンを疾走した。

48kmも続くアルプス山脈のグロースグロックナー峠へ差し掛かると、冷却系へ軽い問題が発生。ラバーにフルードが封入されたハイドラスティック・サスペンションも、激しい上下動に耐えられずダンパー・ブラケットが緩み、操縦性に支障が出た。

それらは、今後の北アフリカでの走りに不安を抱かせた。だが立ち往生することなく、アルプス山脈を登りきっている。

中古車として販売され日本のコレクターへ

危険な中東地域を縦断し、リビアの遺跡群も通過。オーバーヒート気味ながら、北アフリカの渓谷沿いに続く、起伏の激しい道もミニ・マイナー Mk1は走破した。コーナリング性能を、バーカーは積極的なドライビングで確かめたらしい。

ところがその時点で、リアダンパーを固定するピンが金属疲労で破断していた。気付いた時には血の気が引いたと、彼は後に振り返っている。

モーリス・ミニ・マイナー Mk1(1959年/英国仕様)
モーリス・ミニ・マイナー Mk1(1959年/英国仕様)

この冒険ではMk1の走りだけでなく、BMC側の世界的な繋がりにもバーカーは感銘を受けている。ルート上の各都市で、多くの代表者が挨拶に出迎えてくれたそうだ。

一方、出発時点で同社から提供された支援は、ベイルートに届いたスペアタイヤのセットだけだったという。途中、簡単な点検整備を何度か受けたようではあるが。

無事にロンドンへ戻った667 GFCはBMCの研究開発部門に入り、プロトタイプ番号の583に代わって、シャシー番号100が与えられた。1962年に中古車として販売され、ロンドンの西にあるハイ・ウィカムという小さな町でひっそりと暮らしてきた。

1970年代に入ると、地中海を巡る大冒険をした初期型だと判明。日本のコレクターが購入し、1978年以降は東の島国を走ってきた。だが経歴は詳しく調べられることなく、近年まで時間が経過したようだ。

667 GFCの過去が明らかになったのは、レストアのために英国へ戻ってきた時。ミニの専門家によって解明された。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    グレッグ・マクレマン

    Greg Macleman

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ウィル・ウイリアムズ

    Will Williams

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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