聞き飽きないV型12気筒 フェラーリ250 GTE モータースポーツを支えた2+2 前編
公開 : 2022.08.14 07:05
フェラーリ初となったFRで2+2の250 GTE。英国編集部がオーナーズクラブのツーリングに同行し、その魅力に迫りました。
公道用モデルで得た利益が頼り
1950年代から1960年代にモータースポーツで大成功を勝ち取った、スクーデリア・フェラーリ。かといって、有り余る予算が手元にあったわけではなかった。
才能に長けたエンジニア、マウロ・フォルギエリ氏は、技術面だけでなく経営的にも革新的な取り組みに力を注いだ結果だったと、言葉を残している。華々しい活躍の陰に、沢山の見えない努力が存在したのだろう。
その頃にフェラーリで活躍したドライバーの1人が、フィル・ヒル氏。1961年のF1で総合優勝を果たしているが、チームから得た報酬は思い出すことができないと、後年に語っている。
実際、金額は大きなものではなかった。フェラーリのステアリングホイールを握る理由は、お金のためではなく、名誉のためだった。
現在は、トップレベルのモータースポーツにコマーシャル・スポンサーが付くのが当たり前になったが、当時は活動資金を自ら獲得する必要があった。トップレベルのチームであっても。
レーシング・コンストラクターだったBRM(ブリティッシュ・レーシング・モータース)の裏には、英国の大手機械メーカー、ルベリー・オーエン社が付いていた。フェラーリにそんなパトロンは存在せず、公道用モデルの販売で得た利益が頼りだった。
フロントにV12を搭載した2+2の原型
1960年代初頭、フェラーリのモータースポーツ活動に貢献したのが、グランドツアラーの250 GTEだ。1960年から1963年の間に5台のプロトタイプと、949台の市販モデルが生産されている。当時、同社が販売した公道用モデルの7割を占めていた。
また250 GTEには、シリーズ1からシリーズ3までが存在する。それ以外にも改良が細かく加えられており、明確なシリーズわけは少々難しいことも事実ではある。
1948年のトリノ・モーターショーでは、カロッツェリアのトゥーリング社がボディを手掛けた、166クーペが出展されている。これも2+2のフェラーリではあったが、ピニンファリーナ社による妖艶なボディを得た250 GTEのように、量産されたわけではない。
まだ誕生から日が浅かったフェラーリにとって、本格的な量産へ1歩を踏み出すことになったのが、この250 GTE。フロントにV型12気筒エンジンを搭載した2+2ベルリネッタ(クーペ)として、ブランドの原型にもなった。
いわば、フェラーリ・フォーフォーやGTC4ルッソの祖先といえる。新しいローマも2+2レイアウトではあるが、こちらはダウンサイジングし、V8ツインターボ・エンジンを載せている。
エンツォ・フェラーリ氏自身も、自らの移動手段として250 GTEに乗っていた。メキシコのレーシングドライバー、ペドロ・ロドリゲス氏とリカルド・ロドリゲス氏の兄弟もオーナーだった。ミニで有名な技術者、アレックス・モールトン氏も。