戦前の英国スポーツ フレイザー・ナッシュ エース・パイロットが駆ったTTレプリカ 前編

公開 : 2022.08.27 07:05

任務中に被弾したハンプデン爆撃機

「フレディは快調。辛い人生も耐えようという気持ちにしてくれます」。母への手紙で、彼はこう綴っている。

1940年10月の夜中、友人と一緒にドライブしていると、操作を誤り道路から逸脱。フレイザー・ナッシュは転げ落ち、横転してしまった。助手席の友人を殺してしまったと一瞬焦ったようだが、少し気を失っていただけだった。

フレイザー・ナッシュ TTレプリカ(1932〜1938年/英国仕様)
フレイザー・ナッシュ TTレプリカ(1932〜1938年/英国仕様)

近年になりレストアを受けた際、木製のボディフレームに損傷の跡が残っていた。この事故で付いたものだろうと考えられている。

フレイザー・ナッシュが修理に預けられると、ジェームズは兄のレスリーからオースチン・セブンを借りた。兄弟は3人ともクルマが大好きだった。長男のアレックスはシンガポールに駐留していたが、そこでベントレーに乗っていたようだ。

戦火が激しくなると、第83飛行隊の出撃回数は増えていった。ドイツのベルリン、ハンブルグなど、各地での爆撃任務に当たった。しかし反撃も厳しく、毎週1機は機体を失うという状況が続いた。

1941年3月21日、第83飛行隊はドイツ軍の航路を遮るべく機雷投下の任務へ出撃。ハンプデン爆撃機はスカンプトン空軍基地を午前2時に離陸し、目標へ向けて飛行を始めた。

ジェームズの部隊はフランス北部モルレー近くの海岸へ接近し、高度700フィートまで降下。機雷を落とそうかという間際、ドイツ軍による高射砲の嵐が襲った。ハンプデン爆撃機の左翼で回転していた、ブリストル・ペガサスエンジンが被弾した。

義手で操縦桿を握ったホーカー・タイフーン

双発の片方を失い、単発飛行に合わせて操縦系を調整するものの安定せず、高度450フィートで翼端が丘陵地帯に接触。そのままハンプデン爆撃機は墜落し炎上してしまう。

ジェームズは飛行服が焦げてしまったが、一命をとりとめた。ほかの乗組員は命を失っていた。

フレイザー・ナッシュ TTレプリカ(1932〜1938年/英国仕様)
フレイザー・ナッシュ TTレプリカ(1932〜1938年/英国仕様)

彼は近くの農場へ助けを求め、その後ドイツ軍の捕虜に。顔と腕に怪我をしていたが、モルレーの病院で治療を受け一時は回復する。ところが、ドイツ軍の医師は左手の切断を決めたという。

退院後は収容所に隔離されるが、ジェームズは別の捕虜とともに脱出を敢行。フランス市民の助けを借りてパリへ逃げ、3週間ほど潜伏してから南部のマルセイユまで移動。ピレネー山脈を超え、スペイン南部のビラジュイガへ逃亡した。

さらに英国へ戻るには、3か月も要したという。ジェームズは殊勲飛行勲章を与えられている。

故郷へ戻った彼は、ロンドンの西にあるクッカムという町で結婚。フレイザー・ナッシュはウェディングを祝うため、ガレージから連れ出された。

穏やかな暮らしは半年ほどで終わり、ジェームズは再び英国海軍から招聘。義手で戦闘機の操縦桿を握ることになる。

ホーカー・ハリケーン戦闘機に続いて、24気筒2000馬力のエンジンを搭載するホーカー・タイフーン戦闘機で飛行訓練を終了。困難な地上攻撃任務部隊として、1943年5月に第245飛行隊のパイロットに着任した。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ウィル・ウイリアムズ

    Will Williams

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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