97年前の今日 シトロエンが英国での自動車製造を決定 1925年のできごと

公開 : 2022.09.14 17:45

1925年、シトロエンは関税対策で英国スラウ地区に工場を建設することになりました。近代的な設備を備えた大工場で、その後40年にわたってさまざまなモデルを製造しています。

シトロエンが英国工場建設へ

1919年3月、パリ工場からシトロエン初の市販車、タイプAが出荷された。同年、750台のシトロエンがドーバー海峡を越えて英国に渡っている。以来、英国市場は同社にとって大きな収益源となり、1923年にはおよそ2万5000台のシトロエンがイングランド中の道路を走っていた。

1915年以降、英国政府は第一次世界大戦の戦費調達のため、海外の贅沢品に3分の1の税金をかけるマッケナ税を課していた。1924年に一旦廃止されたが、翌1925年には再び関税が課されるようになったため、シトロエンはやむなく英国内で自動車を製造することになる。

輸入車に対する英国政府の関税回避のため、シトロエンはロンドン近郊のスラウに工場を設けた。
輸入車に対する英国政府の関税回避のため、シトロエンはロンドン近郊のスラウに工場を設けた。

工場の建設地としてはイングランド南部、ロンドン近郊の街スラウが選ばれた。1926年2月、4万6000平方メートルの敷地に「世界で最も近代的な機械」を備えた工場がオープン。約5000人の従業員を雇用した。

当時のAUTOCAR誌は、次のように報じている。

「塗装用の特殊な設備があり、組み立てに使うドリルや機械式スパナを動かすための圧縮空気工場も設置されている」

「部品は別々に組み立てられ、コンベアでゆっくり進みながらシャシーに取り付けられていく」

「さまざまな部品にニッケルメッキを施す精巧なシステムがあり、窓用の板ガラスを処理する工場が設置されているのも興味深い」

英国シトロエンの当初のラインナップは、3人乗りのツアラー(現在のお金で6155ポンド/約100万円)、4人乗りのツアラー(8065ポンド/約130万円)、サルーン(9550ポンド/約160万円)であった。

スラウ工場ではその後、トラクション・アヴァントや2CV、ビジュー、DSを製造した後、1965年に閉鎖された。

自動車用携帯ラジオ

昔のラジオ(無線と呼ばれていた)は、非常にテクニカルな趣味であった。多くの英国人ドライバーは自分専用の車載ラジオを自作していたが、BBCの流す交響曲を聴くには運転を止めなければならなかった。

ラジオセットはかさばる。ヘッドホンではなくスピーカー(写真)を使いたい場合はなおさらだ。当時のAUTOCAR誌は、「(ラジオの)適切な容器は、木製のキャビネットではなく、安物のスーツケースである」と書いている。

当時のドライバーはカーラジオを自作するのが当たり前だった。
当時のドライバーはカーラジオを自作するのが当たり前だった。

自作のレシーバーは28ポンドくらいで、現在のお金でおよそ1900ポンド(約30万円)になる。

ハーフトラックがアフリカ横断

シトロエンは、地球の反対側でも話題になっていた。フランス人技師アドルフ・ケグレス設計のハーフトラック(車輪と履帯を備えた車両)が北アフリカを出発してから9か月、約1万8000kmの道のりを経て、南アフリカのケープタウンに到着。アフリカ大陸の縦断に成功したのだ。

このハーフトラックはタンザニア、ケニア、モザンビークを走った後、マダガスカルへ渡っている。

アドルフ・ケグレスが設計したハーフトラック
アドルフ・ケグレスが設計したハーフトラック

ケグレス技師のハーフトラックの履帯は、戦車のような金属製ではなく、ゴムやキャンバス地を使用しており、ロシアや欧州の農村で人気を博した。そして、第二次世界大戦でも大いに名を残している。

記事に関わった人々

  • 執筆

    クリス・カルマー

    Kris Culmer

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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