ロンドンタクシーでシドニーへ カーボディーズFX4で目指したオーストラリア 前編

公開 : 2022.10.22 07:05

ボスポラスを渡りヨーロッパからアジアへ

スロベニアやクロアチアなどが属していた旧ユーゴスラビアへ入ると、トルコからやって来るメルセデス・ベンツの数が増えた。ロンドンタクシーは、予定日までにインドの国境へ到着する必要があり、できる限り先を急いだ。

キャンプ場で寝泊まりしながら、数日後にはトルコ・イスタンブールへ到着。カオスのような都市部の交通に紛れながら、ボスポラス海峡に掛かる橋を通過した。

ロンドンタクシーでオーストラリア・シドニーを目指したグレート・キヤノン・タクシーライドの様子
ロンドンタクシーでオーストラリア・シドニーを目指したグレート・キヤノン・タクシーライドの様子

運転手はガイ。助手席にカネリが座り、エドワードと自分はリアシート。ヨーロッパからアジアへ遂に足を踏み入れた。ここからが本格的な冒険だ、という思いで誰もが興奮していたはずだ。

その日の午後、運転を交代したカネリが悲鳴を挙げた。遅く走る対向車線のトラックを別のトラックが追い越している途中、さらに3台目のトラックが車線をまたいで追い越し始めたのだ。完全に前方が塞がれた状態だった。

あわや衝突という直前、ギリギリのところで3台目のトラックが2台目の後ろへ戻り、路肩に半分乗り上げていたロンドンタクシーの横を通過していった。その様子は、マイクがしっかり映像に残している。

そんな恐怖体験も交えつつ、トルコを横断。イランの国境が近づくと、イスラム教の国に馴染めるよう、頭から足までを覆う黒いチャドルに身を包んだ。1988年の国境検問所は官僚主義的で、効率が悪かった。36時間も足止めされた。

笑顔と握手、数本のタバコが善意の象徴

入国後はイランを短時間で通過できるよう、1日12時間走り続けた。国内の道は至るところで封鎖され、検問所が設けられていた。10代の若者が、マシンガンのカラシニコフを首から下げていた。

笑顔と握手、数本のタバコが、国を越えた善意の象徴だと確認させられることになった。出会う人々は友好的だったが、当時の情勢を鑑みてハイバル峠の通過は選択になかった。パキスタン南部のバロチスタン州が、ロンドンタクシーのルートになった。

ロンドンタクシーでオーストラリア・シドニーを目指したグレート・キヤノン・タクシーライドの様子
ロンドンタクシーでオーストラリア・シドニーを目指したグレート・キヤノン・タクシーライドの様子

砂漠と岩場が入り交ざった荒野を、砂埃を巻き上げながら連日カーボディーズは疾走。ダートに疲れた一行は、小さな村で夜を過ごした。オーブンで焼かれる地元のパン、チャパティの匂いと一緒に。夜は物音1つなくなり、満天の星空のもとで寝た。

走り続ける限り、ロンドンタクシーに据えられた2台のメーターは上がっていった。片方は英国ポンド、もう一方はオーストラリア・ドルで料金が示されていた。目的地へ到着した時点で、距離単価がどれだけ違うのか確かめることも、楽しみの1つだった。

パキスタン中西部のクエッタは文化のるつぼ。美味しい屋台料理にありつけ、アフガニスタンを目指す人にも大勢出会った。インドの国境までは残り約600マイル(965km)。3日間で到着する必要があった。

1980年代、パキスタンからインドへ陸路で入国する場合は、ワーガにある検問所以外にルートがなかった。しかも、通行できるのは毎月の2日と12日、22日という3日間だけ。シドニーへの到着予定日から逆算すると、10日の差は大きかったのだ。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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