400GTの美しい後継車 ランボルギーニ・イスレロ S V12を味わうグランドツアラー 前編

公開 : 2022.12.03 07:05

新車時から一家が乗り継いできた「S」

フェルッチオ自身だけでなく、フランス出身の大女優、ブリジット・バルドーもイスレロに乗っていた。1970年のサイコスリラー映画「悪魔の虚像」にも登場している。

2008年、AUTOCARの姉妹誌がイスレロ Sへ試乗。その際、英国のランボルギーニで31年も勤めたデル・ホプキンス氏は次のように教えてくれた。

ランボルギーニ・イスレロ S(1969〜1970年/英国仕様)
ランボルギーニ・イスレロ S(1969〜1970年/英国仕様)

「英国で登録されたイスレロのもう1台は、バハマの州知事が所有しています。メンテナンスのために、定期的にサンタアガタに戻されていました」。それがまさに、今回のイスレロ S。彼の記憶は間違っていたが、右ハンドルの特別なランボルギーニだ。

1969年式で、シャシー番号は6435が振られ、エンジン番号は50140。モデル自体が非常に珍しいが、特にこの例の場合は、新車当時から一家によって乗り継がれてきたという点で価値が高い。

1906年生まれだった初代オーナーのビル・ガースウェイト氏は、海上保険会社を設立した後にバハマへ移住した父を持っていた。第二次大戦では英国海軍予備員へ加わり、ビスマルクへの攻撃に参加。殊勲十字章を受けている。

ビルは1961年にジャガーEタイプを購入。クルマ好きの人生を歩み始めた。程なくしてイタリアン・エキゾチックへの興味が高まり、デモ車両のイスレロ Sを直接購入するべく、イタリアの工場へ向かっている。

ところが公式ディーラーを通じて以外、ランボルギーニの販売は許されていなかった。そこでバハマと英国の国籍を持っていた彼は、その場でバハマのディラーになる契約を結び、自分へクルマを販売した。

毎年恒例のサンタアガタでのメンテナンス

1969年10月22日、フル装備のイスレロ Sを7000ポンドでランボルギーニから仕入れ、5000ポンド上乗せしビル本人のものとした。クルマが登録されたのはバハマの島、ナッソー。実際に届けられたのは、自宅がある英国ケント州のマットフィールドだった。

彼はフランスへの旅行やカジノでの娯楽の度に、イスレロ Sを使った。息子の1人とともにフランスの競馬クラブへ立ち寄り、その後にイタリアへ向かいサンタアガタでメンテナンスしてもらいながらベニスで休暇を楽しむという、毎年恒例の行事も組まれた。

ランボルギーニ・イスレロ S(1969〜1970年/英国仕様)
ランボルギーニ・イスレロ S(1969〜1970年/英国仕様)

この定期的なランボルギーニへの訪問で、ビルはテストドライバーのヴァレンティーノ・バルボーニ氏やボブ・ウォレス氏と友人関係を築いた。モデナでは、定宿の部屋番号を指定できるほどだった。

ある年、サンタアガタから英国への帰路でクラッチの感触に不満を感じた彼は、2か月後に再訪。調整を受けているが、1速と2速のつながりにくさは変わらなかったという。

ビルが1993年にこの世を去ると、息子のマーク・ガースウェイト氏が残り3人の兄弟の意見をまとめ2代目オーナーに。それ以来、イスレロ Sを大切に維持している。

マークはヒルクライムやスネッタートン・サーキットでの走行会などで、ランボルギーニを積極的に走らせてきた。4.0L V12エンジンと5速MTは、リビルドが施されている。

ボディカラーはオリジナルではビアンコ、ホワイトだったが、ジャッロ・ソーレというイエローへ塗り替えられた。お出かけは、妻のヴィッキーと一緒が常らしい。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジェームズ・エリオット

    James Elliott

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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