シトロエンが導いた過小評価 マセラティ・カムシン 折り紙デザインのグランドツアラー 前編

公開 : 2022.12.10 07:05

ガンディーニの「折り紙」スタイリング

1968年に発表されたコンセプトカーのアルファ・ロメオ・カラボを皮切りに、ガンディーニは平滑なボディ面をシャープなラインで変化させる「折り紙」デザインを発展。カムシンは、その全盛期に描き出された。

いわゆるウェッジシェイプの1つといえるが、それ以外の例とは異なり鋭角的なフロントノーズは得ていない。面構成もフラットではなく、微妙なカーブが与えられていた。

マセラティ・カムシン(1973〜1983年/英国仕様)
マセラティ・カムシン(1973〜1983年/英国仕様)

同時の自動車メディアの反応は様々だった。ロード&トラック誌は、印象的で美しくバランスの取れたラインだと、高く評価した。一方で、美学的には面白みに欠けると、冷ややかな媒体もあった。

同時期のマセラティに準じて、カムシンのスチール製ボディは鋼管パイプを溶接したチューブラーフレーム構造が支えた。シンプルでありながら、優れた剛性を確保していた。

リア半分は独立したサブフレームが用意され、メインフレーム側と4点で結合。巨大な燃料タンクと、ハイドロによるブレーキとステアリング・システムがマウントされた。

サスペンションは、シトロエン時代のマセラティとしては一般的なメカニズムが選ばれている。前後ともにダブルウイッシュボーン式にコイルスプリングとダンパー、アンチロールバーというセットだ。リア側は、コイルとダンパーが2本づつ支えた。

1983年まで続いたカムシンの生産

カムシンが不運だったのは、量産版の発表が1973年でオイルショックと重なったこと。実際に生産がスタートした1974年には、エキゾチックな大排気量グランドツアラーの需要はすっかり消え失せていた。

現金を必要としたシトロエンは1975年にマセラティを手放し、好機と捉えたアレハンドロ・デ・トマソ氏が政府の資金援助を受け買収。政治的にも経済的にも不安定だったイタリアだが、カムシンの販売は1983年まで続けられた。

マセラティ・カムシン(1973〜1983年/英国仕様)
マセラティ・カムシン(1973〜1983年/英国仕様)

最終的な生産台数は、421台といわれている。10年のモデルライフで僅かにスタイリングの変更を受けていたが、最後まで印象的な姿は変わらなかった。1976年には、フロントノーズ部分に冷却用スリットが追加されている。

そんなカムシンは、近年まで見過ごされてきたクラシックだといえる。今回ご登場願った、フェイスリフト後のボディをまとったブラウンの1台は、マセラティの経営に携わったマリオ・トッツィ・コンディヴィ氏が初代オーナーだった。

英国のマセラティ代理店だったMTCカーズも経営していた彼は、ルシデル・ボスコ(森林地帯の明かり)のボディにヴェルデ(グリーン)のインテリアという組み合わせでオーダーしている。このカラーコーディネートで仕上げられた、唯一の右ハンドル車になる。

英国へ届けられると、コンディヴィ個人のクルマとしてMAR 10のナンバーで登録された。当時のAUTOCARにも登場しており、個性的な色の組み合わせは読者に強い印象を残したはず。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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