カロッツエリアも苦悶 ジャガーEタイプ・フルア・クーペ 崩せない完璧な美しさ 後編

公開 : 2023.01.14 07:06

完璧な美しさを誇った、ジャガーEタイプ。カロッツエリアによる特別なボディをまとう1台を、英国編集部がご紹介します。

生産へ移されなかったフルアのボディ

デザイナーのピエトロ・フルア氏から届けられたシルバーのジャガーEタイプ 4.2へ、依頼主のジョン・クームズ氏は落胆した。1966年に開かれたジュネーブ・モーターショーの前夜に。

フルアが営むコーチビルダーのイタルスイスには、改造を受ける予定のEタイプ・クーペが既に送られていた。しかし、追加生産の依頼はなかった。

ジャガーEタイプ 4.2 フルア・クーペ(1966年/英国仕様)
ジャガーEタイプ 4.2 フルア・クーペ(1966年/英国仕様)

1965年11月初旬、カルメン・レッドのボディにブラック・レザーのインテリアというコーディネートで、1台のEタイプがジャガーの工場をラインオフ。ジュネーブ・モーターショーに向けて前後が作り変えられ、控えめなシルバーへ塗り直された。

このショーではBMW 1600にフェラーリ330GTC、プロトタイプのランボルギーニ・ミウラなど、花形モデルが目白押しだった。KPH 4Cのナンバーを取得したフルア・ボディのEタイプの反応は、肯定的なものだけとは限らなかった。

数台の注文もその場で入った。しかしクームズは、仲介に要する手間や生産コストを考慮し、生産へ移すことはなかったという。

その後のEタイプは、一節によるとレイ・マカロック氏に売却されたということだが、ガイ・サーモン氏が1750ポンドで購入したという別の記録もある。ちなみにこれは、オリジナルのEタイプ 4.2より300ポンドも安価だった。

とにかく、マカロックが1972年に所有していたことは間違いない。走行距離を6万8000kmまで重ね、1980年代初めにこの世を去るまで手放すことはなかった。それ以降は、多くのオーナーの元を転々としている。

量産されすぎたジャガーEタイプ

この例のように特殊なクラシックカーの場合、長期的に放置されたり、次のオーナーが見つからない場合もある。しかしKPH 4CのEタイプは見放されることなく、現在まで状態が維持されている。

1990年代半ばには、ベルギー在住のカーコレクターの元へも渡った。その後はネザーランド(オランダ)などを経て、2008年に英国へ復帰。Eタイプ・マニアのアンソニー・ブラッゾ氏が献身的なレストアをボディとメカニズムへ施している。

ジャガーEタイプ 4.2 フルア・クーペ(1966年/英国仕様)
ジャガーEタイプ 4.2 フルア・クーペ(1966年/英国仕様)

もしEタイプで至らなかった点を挙げるとすれば、ジャガーが量産しすぎ、見慣れた存在になってしまったことかもしれない。フルア・ボディが生まれた理由でもある。人とは違うEタイプが求められていた。

クームズのアイデアは、的外れとはいえなかった。とはいえ、遠く離れた英国とイタリアで意思疎通しながら、デザイナーがイメージ通りのスタイリングを仕上げることは難題ともいえた。インターネットが登場する遥か以前の話だ。

ピニンファリーナやベルトーネなら、違う結果を導いただろう。よりプロフェッショナルな組織体制も整えられていた。だがそのぶん、着手費用も高額だった。

英国で1954年に創業したオグル・デザインなど、新しい才能と手を結んだ方が賢明だったかもしれない。ボディやパーツの金型を作り、精巧に仕上げることが容易ではなかったとしても。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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