魅了するツートーン・ボディ ブガッティ・タイプ57 アタランテ 公道用モデルの理想像 前編

公開 : 2023.02.19 07:05

合計36台中オリジナルボディは3台のみ

4種類目のスタイルとして、1935年に追加されたのがアタランテ。同じくブガッティの工場で、週に4台から8台が生産された。滑らかなテールフィンを背負う、タイプ57 アトランティックとは異なるモデルだ。

同社のデザイン番号は1070番で、ギリシア神話の女神を由来にしたアタランテという名を得たのは、パリ・モーターショーでの公開時。1935年4月の発表時は、フォ・カブリオレと呼ばれていた。

ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)
ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)

高性能2シーターとして、高級で乗りやすいモデルが目指されていた。現代的に表現するなら、グランドツアラーといえる。

シャシーは、技術者のジョセフ・ウォルター氏が設計。アルミニウム製ボディには、大きな1枚もののフロントガラスがはめられ、サイドのドアにはティアドロップ形状のウインドウが切られている。長いテールは、滑らかに弧を描く。

1935年には10台が作られ、価格は9万フラン。多くがツートーンカラーに塗られ、7台にはフロントガラスへ迫るほど大きなサンルーフが装備された。同社の特許技術で、ビューロー・ロールトップとも呼ばれている。

最終的には、1938年までに合計36台のタイプ57 アタランテが生産された。サンルーフが装備さたのは10台で、オリジナルのボディをまとったのはシャシー番号が57330と57401、57432の3台のみだった。

今回ご登場いただいたのは、57432番。1936年7月13日にブガッティの工場を旅立っている。記録には、「クーペ・アタランテ、57432/315、ブラックとアイボリー、タン・レザー」と残されている。

1948年に施された徹底的なレストア

オーダーしたのは、フランスの宝石商でブガッティを愛したチャールズ・ジョセフ・オリベロ氏。マルセイユで代理店を営んでいた、元レーシングドライバーのガストン・デスコラス氏が販売している。登録は1936年7月24日。ナンバーは8357 CA 8だった。

1938年7月、オリベロはフランスで開かれたラリー・デ・ザルプに参戦。だが、シャモニーからニースへ走るステージでリタイアしている。

ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)
ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)

翌年、オリベロはタイプ57C ガングロフ・ロードスターを注文。アタランテは、メカニックのエミール・ルヴェイエ氏を1度経て、第一次大戦のエースパイロットとして名を馳せたレオン・ジヴォン氏が買い取った。

ラリー・イベントにも積極的だった彼は、1939年7月13日のラリー・デ・アルプ・フランセーズへ参戦している。完走していないようだが。

第二次大戦が勃発する直前の1939年8月25日に、7262 CB 1のナンバーを取得。マルセイユで、ジヴォンの移動手段になった。

大戦が始まり、アタランテは一時消息不明になるが、1948年6月に実業家のルディ・クルース氏が救出。オリジナルのエンジンは残っていたものの、547番が振られた新しいエンジンへの換装を含めた、徹底的なレストアへ移された。

1949年4月まで、アタランテはルクセンブルクのコーチビルダー、ジョス・メッツ社とガレージ・ロル・ランバート社に預けられた。ヘッドライトが低い位置に備わる、クーペボディを整えるために。新しいトランスミッションも組まれた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    オルガン・コーダル

    Olgun Kordal

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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