魅了するツートーン・ボディ ブガッティ・タイプ57 アタランテ 公道用モデルの理想像 前編

公開 : 2023.02.19 07:05

過去にはアフリカ・コンゴを走ったことも

仕上がったアタランテを、クルースは積極的に運転した。ナンバーをL 5289に付け替える際、登録書類には新しいエンジン番号と一緒に、57432から57547へシャシー番号が誤って記載されたようだ。

1950年11月、ベルギーの建築家、アルバート・ジャン・ド・レイ氏が次のオーナーに。彼は、当時ベルギー領だったアフリカのコンゴへ持ち込み、現在のルブンバシ、エリザベートヴィルで普段使いした。

ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)
ブガッティ・タイプ57 アタランテ(1936年/欧州仕様)

その時点で、アタランテはエンジンの始動性が悪いという問題を抱えていた。ブガッティの工場へ戻しても、解決できなかったという。

10年後にコンゴは独立を果たすものの、ベルギー軍が介入し内戦が勃発。1963年にクルースの自宅も襲われるが、不調だったアタランテは偶然にも一発で始動し、アルバートはザンビアへ逃れることができた。

無一文状態でベルギーへ戻ったアルバートは、再びクルースへアタランテを売却。彼はL 4005のナンバーで登録し直し、10年間ほど維持した。

1970年代を迎えると、ロイヤル・ブガッティ・ナイトクラブを経営するガストン・グレヴァン氏が受け継いだ。ボディはイエローとダークブルーのツートーンへ塗り替えられたが、ナンバーは変わっていない。

1974年の自動車イベントで、グレヴァンはタイプ57を探していたルシアン・メッテ氏と面会。2人の護衛を連れ、現金一杯のスーツケースを持って登場し、売却せざるを得なかったという。カーコレクターのモーリス・タイセレンク氏が手配した人物だった。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    オルガン・コーダル

    Olgun Kordal

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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