アストン マーティン・ブルドック(1979年)

ウィリアム・タウンズ氏は、アストン マーティン ブルドッグのスタイリングを、彼のトレードマークであるウェッジルックに仕上げた。アストンの5.3L V8をツインターボ化し、最高出力600ps、最高速度380km/hを発揮するとされたが、この数値はやや誇張気味で、近年のテストでは最高速度は310km/hだった。

インテリアでは、古典的なレザーとハイテクのLEDタッチスクリーンを融合させた。中東の富裕層向けに25台の限定生産が予定されたが、1981年にアストンの会長に就任したビクター・ガントレット氏が、ブルドッグの開発を中止させた。製作された1台はその後、13万ポンドで売却されたが、最近、大規模なレストアによって蘇った。

アストン マーティン・ブルドック(1979年)
アストン マーティン・ブルドック(1979年)

プジョー・クアザール(1984年)

もし生産が開始されていたら、クアザールは1980年代を代表するスーパーカーになっていたかもしれない。低く流麗なボディに、今ではほぼ当たり前となったシザードアを備え、世界選手権ラリーでプジョーを頂点に立たせた205ターボと同じパワートレインを採用している。

1基ではなく2基のターボを搭載した1.8L 4気筒エンジンは、後に登場したフェラーリF40よりも100ps以上高い600psのパワーを誇ったと言われている。

プジョー・クアザール(1984年)
プジョー・クアザール(1984年)

アウディRS 002(1986年)

1980年代後半に提案された国際ラリーのグループS規定は、グループBよりパワーは劣るものの、メーカーが製造しなければならない台数が少なくなるため、よりエキゾチックなクルマになるはずだった。そこでアウディが提案したのが、市販車とは似ても似つかないミドエンジンのRS 002だった。

しかし、国際ラリーはオーソドックスなグループAへの移行を決定し、アウディのプロジェクトは立ち消えになってしまった。もし、グループSが実現していれば、アウディは少なくとも10台を製造・一般販売する必要があった。

アウディRS 002(1986年)
アウディRS 002(1986年)

プジョー・オキシア(1988年)

プジョー・クアザールの4年後、さらに過激なオキシアが登場した。従来型のドアとプジョーらしい「顔」を持ちながら、ケブラーとカーボンファイバーの複合材で作られたボディが特徴的であった。クアザールと同様、ミドエンジンの四輪駆動であったが、これに四輪操舵が追加され、ルノーボルボと共同開発した2.8L V6エンジン(PRV)を搭載する。

もともと大型車向けで、必ずしも高性能とはいえないが、PRVエンジンには大きな可能性があった。オキシアにはツインターボが装備され、約680psを発生、当時の公道走行可能なクルマをはるかに凌駕する出力を誇った。

プジョー・オキシア(1988年)
プジョー・オキシア(1988年)

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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