野性味濃いV12エンジン ランボルギーニ・エスパーダ アヴェンタドール・ウルティマエ 前編

公開 : 2023.07.15 07:05  更新 : 2023.07.15 08:51

半世紀以上も進化を続けた、ビッザリーニ設計のV12エンジン。それを載せた始期と終期のモデルで、英国編集部が振り返りました。

際立つモデルを生み出してきたランボルギーニ

ランボルギーニは、斬新なスタイリングやカラーリング、圧倒的なパフォーマンスで、常に際立つモデルを生み出してきた。同時に、自然環境への負荷を減らすことにつながるとしても、ドライビング体験へ影響を及ぼす新技術の導入には否定的でもあった。

エンジンのダウンサイジング、高効率なターボチャージャー、電気の力を借りたハイブリッド・システム。ランボルギーニは、これらに背を向けてきた。最近までは。

ランボルギーニ・エスパーダ S3(1968〜1978年/欧州仕様)
ランボルギーニ・エスパーダ S3(1968〜1978年/欧州仕様)

しかし2022年、同社はアヴェンタドール・ウルティマエで、半世紀以上も進化を重ねた自然吸気のV型12気筒エンジンへ別れを告げた。現在は、設計が一新されたユニットを積んだ、ハイブリッド・スーパーカーの開発が終盤にある。

次世代への試乗が許されるまで、もう少し時間がある。イタリア北部、ボローニャ近郊に位置するランボルギーニ本社へ赴き、エスパーダとアヴェンタドールを比較する、絶好のタイミングだといえる。当初365psだったユニットは、780psまで増強されている。

牧歌的なサンタアガタにスーパーカー・メーカーが誕生したきっかけは、トラクターで財を成したフェルッチオ・ランボルギーニ氏が、フェラーリの品質へ疑問を抱いたことだった、というのは広く知られた事実だと思う。クラッチプレートの耐久性で。

ビッツァリーニが設計したV型12気筒

労働環境への不満が募り、フェラーリでは大規模なストライキが1961年に発生。有能な技術者を少なからず失っていた。そのタイミングで、独自のスーパーカーを作ろうと考えたフェルッチオは、幸運に恵まれたといえる。

ランボルギーニは能力に長けた技術者、ジオット・ビッツァリーニ氏を招き入れることが叶った。彼には、設計がほぼ完了していたF1用の1.5L V型12気筒エンジンをベースに、大排気量ユニットを生み出すという任務が与えられた。

シルバーのランボルギーニ・エスパーダ S3と、ガンメタリックのランボルギーニ・アヴェンタドール・ウルティマエ
シルバーのランボルギーニ・エスパーダ S3と、ガンメタリックのランボルギーニ・アヴェンタドール・ウルティマエ

ビッツァリーニは4か月でフェルッチオの要望に応え、当時のフェラーリ製V12ユニットを上回る性能を引き出した。排気量は3464ccで、ダブルローラー・チェーン駆動による2本のカムが、2列のシリンダーヘッドに組まれていた。

新しいエンジンがお披露目されたのは、1963年のイタリア・トリノ・モーターショー。最高出力は、その頃としては秀抜な365psを達成していた。ところが、ビッツァリーニはランボルギーニに長くいなかった。

気分屋として知られており、レース用エンジン以外の設計を依頼されたことで、フェルッチオとの関係性を悪化させたという説がある。ライバルメーカーのイソから、単に魅力的な移籍の誘いを受けただけだったと考える人もいる。だが、定かではない。

ビッツァリーニの後任を担ったのは、こちらも有能なジャンパオロ・ダラーラ氏。1964年の発表に向けて設計が進んでいた、フロントエンジンのランボルギーニ350GTへV12エンジンを適合させる仕事が任された。

記事に関わった人々

  • 執筆

    チャーリー・カルダーウッド

    Charlie Calderwood

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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