ラリーとレースの二刀流 フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア モダンな運転体験 前編

公開 : 2023.09.02 17:45

BMW 328へ強い影響を受けた量産モデル

そんな折、同じく自動車製造の拡大を目指していたブリストル・エアプレーン社と意気投合。1945年7月に、フレイザー・ナッシュはブリストル側へ吸収され、新モデルの開発が始まる。

結果的に、求めるクルマの方向性が異なり、両社の協力関係は3年しか続かなかった。それでも1971cc 6気筒エンジンの開発は完了し、少なくとも有益な成果は導かれた。

フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア(1952年式/英国仕様)
フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア(1952年式/英国仕様)

1947年、BMWの自動車部門を率い、シャシーやサスペンション、空気力学などを専門としたフリッツ・フィードラー氏が渡英。アルディントン兄弟とともに、ブリストル・タイプ400の開発へも関わった。

戦後初となる、フレイザー・ナッシュの量産車がお披露目されたのは、1948年10月のロンドン・モーターショー。それがBMW 328へ強い影響を受けていたことは、誰の目にも明らかだった。

当時のロード&トラック誌は、「シリコン・マンガン・チューブラーフレームに、(328と)同じ、横向きのリーフスプリング・フロント・サスペンションを備えています。ブレーキとリアスプリングはアップデートされています」。と紹介している。

実際は、リーフスプリングではなくトーションバーが用いられていた。ステアリングラックは、328と同じくラック&ピニオン式。ブレーキは、冷却用のバックプレートを備えたドラムだった。

トランスミッションとリアアクスル、ダンパーはブリストル社製。直列6気筒エンジンもブリストルで鋳造され、最高出力121ps/5500rpmを発揮した。また、チューニングを施したコンペティション仕様が準備され、大きなレースで結果を残した。

優雅な曲線を描くアルミニウム製ボディ

レッドに塗られた4台目のシャシーは、レーシングドライバーのノーマン・カルパン氏と、アルディントン兄弟のハロルドのペアで1949年のル・マン24時間レースへ出場。総合3位でフィニッシュし、大きな話題を呼んだ。

これを受け、量産仕様はルマン・レプリカと命名。フレイザー・ナッシュのモデルに、レースへちなんだ名前が与えられるきっかけとなった。セブリングやタルガフローリオ、そしてこのミッレミリアなど。

フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア(1952年式/英国仕様)
フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア(1952年式/英国仕様)

ミッレミリアのシャシーを設計したのは、ドクター・フィードラー氏と呼ばれた技術者。1947年にプロトタイプが作られ、イタリア・ミラノのトゥーリング・スーパーレッジェーラ社へ運ばれ、滑らかなボディがデザインされた。

市民へお披露目されたのは、1948年のスイス・ジュネーブ・モーターショー。1949年のロンドン・モーターショーへ出展された時点で、既にミッレミリアというモデル名を得ていた。

イタリアの公道レース、ミッレ・ミリアで総合6位の入賞を果たしたのは1951年。未来を予見したネーミングといえたかもしれない。

ルマン・レプリカと違い、アルミニウム製ボディは優雅な曲線を描き、ブリストル・エンジンの背の高さを巧妙に誤魔化した。ただし初期に作られた4台は、それ以降とシャシー構造が異なっていた。

トリプル・キャブレターの上に、背の低いエア・インテークが載っている。歴代のフレイザー・ナッシュで最も美しいという評判を、今に残している。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジュリアン・バルメ

    Julian Balme

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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