麗しいミケロッティ・ボディ ランチア・アレマーノ・アウレリア B53 1台限りのクーペ 前編

公開 : 2023.09.10 17:45

豪華さと快適さを求めて仕上げられた、アレマーノ・アウレリア。1台のみが作られた特別なクーペを、英国編集部がご紹介します。

魅力的なフォルムを生み出してきたトリノ

1953年のイタリア・トリノ・モーターショー。真新しいランチア・アッピアや、宇宙船のようなコンセプトカー、ベルトーネBAT アルファ・ロメオが、多くの観衆の話題を集めた。

独自ボディを手掛けるアレマーノ社のスタンドには、麗しい2ドアクーペが展示されていた。姉妹モデルとして、センターピラーレスの4ドアサルーンも飾られていた。どちらも、アウレリアのシャシーを用いたワンオフ・モデルだった。

ランチア・アレマーノ・アウレリア B53(1953年式)
ランチア・アレマーノ・アウレリア B53(1953年式)

過去にも多くのカロッツェリアが、オリジナル・デザインのコンセプトカーを発表してきた。1950年代のイタリア北部は、創造性豊かな時代を謳歌していた。アレマーノ・アウレリア B53も、それに華を添える1台程度に受け止められたのかもしれない。

トリノの人々は、スチールの板から魅力的なフォルムを生み出す能力へ長けていた。労働力に対する対価は比較的低く、さまざまなハンマーを扱う技術は、鎧を作っていたローマ時代から連綿と受け継がれていた。

アウレリアの代表的なモデルといえば、ピニンファリーナ社が手掛けたクーペのB20やスパイダーのB24が、まず思い浮かぶ。アレマーノのB53は、バルボ社やヴィオッティ社など、それ以外のカロッツェリアによる例と同じく影が薄いといっていい。

スタイリングはジョヴァンニ・ミケロッティ

1928年にアレマーノ社を創業したのは、セラフィーノ・アレマーノ氏。フェラーリ初となる市販モデルのボディを製造するほど、優れた技術力を培っていた。

しかし、ピニンファリーナ社やベルトーネ社、ギア社といったカロッツェリアほど、量産体制が整えられていたわけではなかった。1台限りのコンセプトカーや、20台前後の特注ボディを生み出すような、伝統的なスタイルを得意としていた。

ランチア・アレマーノ・アウレリア B53(1953年式)
ランチア・アレマーノ・アウレリア B53(1953年式)

同社は1965年に廃業してしまうが、フィアットと契約しアバルトのボディを提供。誕生したばかりの日本の自動車メーカー向けに、プロトタイプも1台残した。晩年には、エキゾチックなマセラティ5000GT用のボディも手掛けている。

アレマーノ・アウレリア B53のスタイリングを描き出したのは、デザイナーのジョヴァンニ・ミケロッティ氏。彼はほかにも、以前から関係の深かったアルフレード・ヴィニャーレ社と協働し、独自ボディのアウレリアを6台生み出している。

第二次大戦が集結し、自動車への関心が再び高まりだすと、ランチアは標準仕様とは異なるボディへのニーズを満たそうとした。ピニンファリーナ社との繋がりを強める一方で、規模の大きくないカロッツェリアへも積極的に働きかけた。

世界初の量産V型6気筒エンジンを搭載したアウレリアは、発表と同時に驚くほどの評判を集めた。ランチアは、その勢いに成功を確信。金に糸目をつけない富裕層向けに、少量生産のボディを提供することへの可能性を見出した。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジェームズ・マン

    James Mann

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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