奇跡的なドイツ復興を牽引 メルセデス・ベンツ170 S 秘密情報部員が乗ったカブリオレ(1)

公開 : 2023.10.21 17:45

ドイツ復興を牽引したメルセデス・ベンツ170 戦前から引き継がれた先進的な設計 秘密情報部員が乗ったカブリオレを英編集部がご紹介

希望の光になった170 Vの生産ライン

第二次大戦で荒廃したドイツには、暗く沈んだ空気が立ち込めていた。アメリカの爆弾が容赦なく落とされ、旧ソ連の戦線は西へ前進。大きな通りへ面する建物は破壊され、ナチスへ屈しないという世界の意志が武力で示された。

しかし、奇跡的に生き延びた施設もあった。ドイツ南西部のシュトゥットガルトには、メルセデス・ベンツのウンターテュルクハイム工場の一部が残っていた。

メルセデス・ベンツ170 S カブリオレB(1949〜1951年/欧州仕様)
メルセデス・ベンツ170 S カブリオレB(1949〜1951年/欧州仕様)

戦火が静まった1か月後には、アメリカの監督下で、少数の労働者が働き始めた。シュツットガルト兵器修理工場と名称は変えられ、瓦礫が撤去され、アメリカ軍車両の修理が行われた。同時に、メルセデス・ベンツ170 V用の生産ラインが修復された。

1946年1月に自動車の量産が認められると、その生産ラインは希望の光になった。戦前の繁栄に並ぶペースとは程遠くても、170 Vはメルセデス・ベンツを救った。ドイツ全体の再建へ必要とされた、車両の供給にも繋がった。

メルセデス・ベンツ・ブランドを立ち上げたダイムラー・ベンツ社は、1926年に創業。1930年代半ばにリリースされた、新モデルのW136型170 Vは、他を圧倒するほど先進的なモデルといえた。当時の中流階級の心を掴み、ブランドの地位を確立させた。

サイドバルブの直列4気筒エンジンはスムーズに回転し、堅牢だった。スチール製ボディは均整が取れ、高品質だった。価格も高すぎず、1935年から1942年までに9万1048台が売れている。

働くクルマの土台になったW136型のシャシー

厳しい時代を経て、1946年に大きな意味を持ったのはW136型の優れたシャシーだった。それ以前の特徴といえた、U字型セクションフレームではなく、1931年のW15型と同様に、中央がクロスした十字型バックボーンフレームで構成されていた。

サスペンションも従来的なリジットアクスルではなく、前後ともに前衛的な独立懸架式を採用。ブレーキは油圧式だった。

メルセデス・ベンツ170 S カブリオレB(1949〜1951年/欧州仕様)
メルセデス・ベンツ170 S カブリオレB(1949〜1951年/欧州仕様)

量産許可が出た直後は、貨物バンやピックアップトラック、救急車といった働くクルマのベースに。1947年からは、乗用車ボディの生産も認められた。

その後、アメリカの管理下に置かれていたマンハイム工場と、フランス管理下だったガッゲナウ工場でトラックの生産が再開。ウンターテュルクハイム工場は乗用車へ本格的にシフトし、近郊のジンデルフィンゲン工場で最終的な組み立てが行われた。

1949年5月に、ドイツ北部のハノーバーでテクニカル輸出フェアという展示会が開かれる。そこでメルセデス・ベンツは、戦前のデザインと殆ど変わらない合理的な乗用車、W136型とW191型の2台を発表した。

W136型の170 Dは、ガソリンより大幅に安価だった軽油を利用するため、1697ccの直列4気筒ディーゼルエンジンを搭載していた。上級仕様に設定された、W191型の170 Sには、僅かに強力な1767ccの直列4気筒ガソリンエンジンが載っていた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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