奇抜な理由は1100mm制限 ワイラ・プロネッロ・フォード 南米のプロト・レーサー(1)

公開 : 2023.11.18 17:45

スケールモデルで風洞実験を重ねたボディ

それが、1969年に初戦が開かれたスポーツ・プロトティポ・アルヘンティーノ。これには、IKAも非公式ながら関わった。独自マシンを開発する意向を示した、ヘリベルトを後ろから支えるという態勢で。

彼がドライブトレインとして選んだのは、320馬力以上を発揮するフォードのV型8気筒エンジンと、ZFの4速マニュアル。これらを最適な位置へ搭載できる、強固なスペースフレームが設計された。

空気力学を専門とした、技術者のヘリベルト・プロネッロ氏
空気力学を専門とした、技術者のヘリベルト・プロネッロ氏

サスペンションは前後とも独立懸架式で、ブレーキはディスク。市販車のトリノとはまったく異なる構成といえた。

最大の特徴といえたのが、流線型でグラマラスなグラスファイバー製ボディ。スケールモデルで風洞実験を重ね、形状が煮詰められた。

レギュレーションに含まれた、高さ1100mmというルーフラインを満たすため、キャビンは丸く膨らんだ。フロントガラスは飛行機のようにカーブを描き、ガルウイングドアが取り付けられた。

高くそびえるリアウイングや、後方へ伸びるカムテール状のエクステンションなど、複数のバリエーションも検討されたという。ボディ後半は一体成型で、いずれも車内から専用工具で固定する構造が取られていた。

滑らかなフェンダーラインと呼応するように、ボンネットは低く伸びやか。中央から突き出たクワッド・ウェーバーキャブレターを、ラム圧を利用したエアインテークが覆った。

数年後、バルケッタボディの参戦が認められるなど、レギュレーションは緩和。エアインテークが切り取られ、吸気トランペットがむき出しになった。

のっけから速かったワイラ・プロネッロ

このプロトタイプマシンを、ヘリベルトはワイラ(Huayra)と命名。これは、ハリケーンをもたらすアンデス地方の神の名を由来としている。ちなみに、アルゼンチン出身のオラチオ・パガーニ氏も、現代のハイパーカーへ同じ名前、ウアイラを与えている。

開発は遅れ、ワイラがスポーツ・プロトティポへ参戦できたのは1969年シーズンの4戦目。アルゼンチン・コルドバ州のサーキット、アウトドローモ・オスカー・カバレンでデビュー戦に挑んだ。

ワイラ・プロネッロ・フォード・クーペ(1969年)
ワイラ・プロネッロ・フォード・クーペ(1969年)

美しくカーブを描くブルーのクーペに、観衆は魅了された。しかも、ステアリングホイールを握ったドライバー、カルロス・ロイテマン氏とカルロス・パスカリーニ氏は、のっけから速かった。

予選でポールポジションを掴んだのは、ライバルマシンのベルタ・トルネードだったものの、ワイラも同タイムでフロントローを奪取。本戦ではパスカリーニが序盤からレースをリードし、フォード・ファンを湧かせた。

しかし、10周目にブレーキトラブルが発生しリタイア。3位を走っていたロイテマンも、リタイアに沈んでいる。

不発に終えたデビュー戦の後、ヘリベルトたちはワイラを改良。2戦目は西部のサンタフェ州ラファエラ郊外にある全長4.6kmのオーバルコースで、高速域での性能が求められた。

予選では、パスカリーニとロイテマンが他チームを圧倒。周回速度は、平均で300km/hに達していた。その速度域ではサイドウインドウが風圧で外れそうになり、テープで固定し対応したという。

この続きは、ワイラ・プロネッロ・フォード 南米のプロト・レーサー(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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