大胆な形はダウンフォースを生んでいた ワイラ・プロネッロ・フォード 南米のプロト・レーサー(2)

公開 : 2023.11.18 17:46

アルゼンチンで誕生したレース用プロトタイプ ルーフ高1100mmのルールへ合わせた奇抜なボディ むき出しのV8エンジンで300km/h超 レストアで再生

新しい4.0Lユニットで最高出力は436psへ

1969年シーズンの第5戦でポールポジションを掴んだのは、0.7秒差で速かったカルロス・ロイテマン氏。本戦、2台のワイラ・プロネッロ・フォード・クーペが、大きなアドバンテージでレースをリードした。

ところがロイテマンのマシンは、トラブルでパワーダウン。リタイアに喫してしまう。チームメイトのカルロス・パスカリーニ氏がトップへ交代し、そのまま優勝を勝ち取った。2位は、1周遅れのバウファー・ダッジが掴んでいる。

ワイラ・プロネッロ・フォード・クーペ(1969年)
ワイラ・プロネッロ・フォード・クーペ(1969年)

レース後のインタビューで、パスカリーニは興奮気味に言葉を残した。「マシンは完璧なバランスで、ターンインもブレーキングも素晴らしかった。間違いなく、自分のキャリアで最も重要な勝利になりました」

その後、フォードが複数チームへV8エンジンを提供したという情報を耳にし、ヘリベルト・プロネッロ氏が率いるチームは更にワイラをチューニング。新しい4.0Lユニットに4基のダウンドラフト・ウェーバーキャブレターを載せ、最高出力を436psまで高めた。

それでもライバルは手強く、ワイラが再び勝利することはなかった。ラファエラのオーバルコースでの1勝で、幕引きとなった。

大胆なボディを創出したスポーツ・プロトティポ・アルヘンティーノ・レースではあったが、プロトタイプマシンの開発には大きな予算が求められた。それを捻出できるプライベートチームはほぼ存在せず、参戦車両は20台を越えることはなかった。

加えて、アルゼンチンは社会主義政治へ移行し、貿易も制限された。1973年でレースは終了している。

5年間の丁寧なレストアで見事に復活

とはいえ、アルゼンチンの自動車ファンを大いに湧かせたイベントだったことは間違いない。リカルド・ゼツィオラ氏も、ヘリベルトが生み出したワイラへ魅了された1人だ。

1996年に、彼は別のプロトタイプ、ハルコン・フォード・ツーリスモ・カレテラのレストアへ着手。3年後に完成し、1999年にアルゼンチン最大のクラシックカー・イベント、アウトクラシカで最優秀レストア賞を受賞。ワイラへの想いを一層深めたという。

ワイラ・プロネッロ・フォード・クーペ(1969年)
ワイラ・プロネッロ・フォード・クーペ(1969年)

その5年後、コルドバで1台が放置されているという情報を入手。彼はワイラの開発へ携わり、同じく残存車両を探していたヘリベルトへ連絡。2人は、5年間に及ぶ丁寧なレストアへ着手した。

シャシー番号002には細部まで入念な仕事が施され、2010年に完成。その年のアウトクラシカで、最優秀レストア賞に選ばれた。さらに、サンタフェ州の知事も務めたレーシングドライバーのカルロス・ロイテマン氏へ、ワイラは贈呈されている。

ロイテマンは、436psを発揮するV8エンジンのサウンドへ久しぶりに包まれた。その時、満面の笑みを浮かべたそうだ。

2021年に彼は亡くなり、追悼を兼ねて翌年のアウトクラシカへ出展。その場にいた技術者のセルジオ・リンランド氏とリカルドが話し合い、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードへのエントリーが決まったそうだ。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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