マセラティとブガッティを経た大物移籍 ランボルギーニを牽引した男:マウリツィオ・レッジャーニ(1)

公開 : 2023.11.25 09:45

EB110のV12クワッドターボを経てランボへ

「そこは、自分にとって本当の意味での学校でした」。貴重なブガッティEB110のエンジンルームを眺めながら、レッジャーニが口にする。歴代のランボルギーニが停まっていても、その存在感は圧倒的だ。

「完全な白紙からのスタート。すべて、初めてのことばかりでした」。彼が主導したのは、新しいパワートレインの開発。60バルブのV型12気筒エンジンに、クワッドターボをドッキングするアイデアが進められた。

ブガッティEB110(1991〜1995年/欧州仕様)
ブガッティEB110(1991〜1995年/欧州仕様)

コンパクトに仕上げるため、クランクシャフトと並行してトランスミッションが組まれることになった。しかも、1つの鋳造ケースの中へ。新開発となる、四輪駆動システムも盛り込まれた。

発売は1991年。最高出力は560psで、狙い通り世界最強の公道用モデルという称号を獲得した。だが、1992年にマクラーレンF1がその座を奪っている。

「とても小さなグループで、不可能なことを理解できないほど若かったですね。アイデアを考え、実作し、試験し、不具合を解決するというプロセスが、あれほど迅速に進んだ場所は、これまでも経験したことがありません。研究室のようでした」

ブガッティが目指す高みは、市場が欲する台数を遥かに超えていた。経営は厳しく、破綻直前の1995年に彼は次のステップへ踏み出す。フェラーリからF1用エンジン開発のオファーを受けたそうだが、最終的にランボルギーニを選んだ。

アウディによる買収のきっかけを創出

最初に関わったのが、ディアブロの後継モデルに据えられつつ、完成に至らなかったカント。その頃はプロジェクト147と呼ばれていた。ところが、インドネシア人がオーナーだったランボルギーニもまた、経営状態は芳しくなかった。

「ブガッティとは、まるで反対でした。既に存在するものを利用する必要がありました。お金もリソースもありませんでしたね。最小限から、最大限を生み出すことが求められたんです」

ランボルギーニ・ディアブロとマウリツィオ・レッジャーニ氏
ランボルギーニ・ディアブロとマウリツィオ・レッジャーニ氏

レッジャーニは、ひと回り小さい新モデルの開発にも関与。直接的には実らなかったものの、その後のランボルギーニの運命を一変させることになった。

「コストを考えると、既存のパワートレインを利用することになります。そこで選択肢を探しました。BMWフォードも考えましたが、四輪駆動であることを考え、アウディA8へ搭載されていた、4.2Lユニットが最適だと判断したんです。180度回転させて」

「ドイツ・インゴルシュタットへ赴き、アウディのCEOだったフランツ・ヨーゼフ・パフゲン氏へお会いし、交渉しました」。レッジャーニが笑みを浮かべる。

果たして、アウディはそのプロジェクトへ関心を抱いた。傘下とするフォルクスワーゲン・グループのトップ、フェルディナント・ピエヒ氏まで議題は登り、示された提案はランボルギーニの買収という内容だった。

この続きは、ランボルギーニを牽引した男:マウリツィオ・レッジャーニ(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マイク・ダフ

    Mike Duff

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ランボルギーニを牽引した男:マウリツィオ・レッジャーニの前後関係

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