【車名を言える?】フォルクスワーゲン・ミュージアム 21台の「忘れられたクルマ」たち
公開 : 2020.05.07 11:50
フォルクスワーゲンのミュージアムから、過去に作られたコンセプトカー、実験車両、改造車など、あまり知られていないクルマたちをご紹介しましょう。歴史的に意義深い試作車や、市販化を無視した楽しいワンオフ車もあります。
もくじ
ーコンセプトカーからワンオフ・モデルまで
ー1955年 EA48(1)
ー1955年 EA48(2)
ー1961年 タイプ3カブリオレ
ー1963年 EA128(1)
ー1963年 EA128(2)
ー1969年 EA276
ー1971年 ESVW I
ー1972年 T2 GT70
ー1973年 ベイシス・トランスポルター
ー1973年 プラッテンバーゲン
ー1973年 T2bオープンエア
ー1975年 キッコ
ー1976年 ロボモビル
ー1977年 パサートGTI
ー1984年 ポロのエンジンを搭載したビートル
ー1984年 IRVW III
ー1987年 T3マグマ
ー1990年 ビアジーニ・パッソ
ー1990年 ヴァリオI
ー1995年 バルーン・ビートル
コンセプトカーからワンオフ・モデルまで
フォルクスワーゲンは、地元ヴォルフスブルクに2館のミュージアムを持っている。
1つ目の「ツァイトハウス(時の館)」と名付けられたコレクションには、100台を超える象徴的なモデルが動態保存されている。まるで自動車の歴史書だ。そこではランボルギーニ・ミウラからオースティン・ミニ、キャデラック・エルドラド、そしてもちろん、様々なフォルクスワーゲンの歴史的モデルを見ることができる。
そしてもう1つの「スティフトン(財団)」と呼ばれるミュージアムでは、フォルクスワーゲンがこれまで試行錯誤してきた、最も輝かしく、最も向こう見ずな精神を辿ることができる。ほとんど知られていないワンオフ・モデルから、重要な量産モデル、公開されたことのないプロトタイプ、そしてかつて人気を博したコンセプトカーなどが、同じ屋根の下で余生を送っている。そんなフォルクスワーゲンの忘れられた歴史を見ていこう。
1955年 EA48(1)
1955年に製作されたEA48と呼ばれるプロトタイプは、結局量産されることはなかったものの、オースティンが1959年に発表したミニと驚くほど似ている。当時はサイズや価格、性能がビートルの下に位置するモデルとして開発されていたようだ。コンポーネントはビートルと共有しながらも、コストを抑える必要があったため、EA48のデザイナーは白紙から設計を始めた。
EA48はフォルクスワーゲン初スモールカーであると同時に、ポルシェが関与しない初めてのモデルとして注目に値する。モノコック構造を採用し、フロントに搭載されたエンジンが、マクファーソン・ストラット式サスペンションを備えた前輪を駆動する。この組み合わせは当時、世界初の試みだった。このプロトタイプには後部座席のサイドウインドウがないが、市販車には付け加えられる予定だった。
1955年 EA48(2)
EA48のエンジンは、本質的にビートルの水平対向4気筒を半分にしたものだ。排気量0.7リッターの空冷フラットツインは、最高出力18psを発生。最高速度は80km/hを超えた。当時、同サイズのクルマはほとんどが3速トランスミッションだったのに対し、EA48には4速マニュアル・トランスミッションが装備されていた。
フォルクスワーゲンはEA48を公道でテストし、いくつかの問題を解決。市販化は目前だった。しかし、そこである深刻な問題が浮き上がってきた。EA48の発売がビートルの販売に与える影響が懸念されたのだ。当時フォルクスワーゲンの大衆車は、ようやく消費者の心をつかみ始めたところだった。そこに、より小型で安価なモデルを投入すれば、せっかく築き上げてきたこれまでの成果を壊しかねないと心配するのはもっともだ。さらに興味深い話もある。カール・F・ボルグワードが西ドイツ政府に対し、フォルクスワーゲンにこのプロジェクトをやめさせることを勧めたというのだ。
EA48が市販されたら、ライバルの自動車会社に務める数千人が職を失うことになると、当時のルートヴィヒ・エアハルト経済相はフォルクスワーゲンのハインリヒ・ノルトホフ社長に警告。1956年にこのプロジェクトは自動車史の神殿に封印されることになる。