【アファルターバッハの夢】メルセデスAMGの歴史 飽くなきハイパフォーマンスの追求
公開 : 2020.10.23 11:20 更新 : 2021.01.30 21:14
AMGの歴史は、2人の才能あるメカニックが小さな町に自分たちの工房を設立したことから始まります。本家を超えるパワーの追求、ビジネスの成長、時代の変化など、AMGの歴史をハイスピードで駆け抜けてみましょう。
夢をかなえた男たち 社名の由来
良いニュースが不思議な形でやってくることもある。ハンス・ヴェルナー・アウフレヒトにとって、メルセデス・ベンツが1965年にレース活動から撤退すると決定したことは、災難に思えたに違いない。
10代の頃、彼はメルセデスのレース用エンジンを作ることを夢見ていたが、同社に就職して間もなくその夢は打ち砕かれようとしていた。
普通の人なら現実を受け入れて、夢を諦めてしまうだろう。しかしアウフレヒトは違った。
エアハルト・メルヒャーという志を同じくする同僚とともに、300 SEを手に入れて分解し、エンジンの出力を172psから241psに引き上げ、マンフレッド・シークの運転により1965年のドイツ・ツーリングカー選手権で10戦10勝を挙げた。
ニュースは瞬く間に広まり、翌年末にはアウフレヒトとメルヒャーに、公道やサーキットで使用するためのメルセデスのチューニング依頼が殺到した。そこで1967年、彼らはメルセデスでの仕事を辞めて独立し、ブルクシュタルの近くにショップを設立することを決意した。
こうして、アウフレヒト(A)とメルヒャー(M)、そしてアウフレヒトの故郷であるグロース・アスパッハ(G)が1つになり、AMGが誕生したのである。
商売は繁盛した。メルセデスでさえもチャンスを見落としていたことに気づき、ロードカーを高度にチューニングしたバージョンをリリースし始めた。その最もわかりやすい例を挙げると、1968年の6.3L 300 SELがある。
しかし、メルセデスのスーパーサルーンがどんなに速くてパワフルなものであっても、AMGはそれをさらに追い越すために心血を注いだ。
3年を要したが、6.3Lで250psの300 SELが、6.8Lで434psのレースカーに仕上がっていた。1971年のスパ24時間レースでは、グリッド上に大きな赤い「豚」が出現したことに群衆やライバルからは驚きの声が上がっていたが、見事に2位とクラス優勝を果たした。
エンジンだけでなく、インテリアのカスタム需要にも後押しされてビジネスは急成長を遂げ、1976年にはグロース・アスパッハの敷地が手狭になったためアファルターバッハへ移転し、現在に至る。
ビジネス成功 本家を超えるパフォーマンス
1980年代半ばには、単なる既存モデルのチューニングだけでなく、自社製モデルと呼ぶに値するほどのものを仕上げるようになっていた。
1984年のAMG 500 SECは、メルセデスよりもずっと前に4バルブシリンダーヘッドを搭載していた。しかし、AMGが「ハンマー」というエンジンで有名になったのは1986年のことだった。
これは中型セダンのW124に、メルセデス最大のエンジン(5.6L)を押し込んだものだ。4バルブヘッドはAMGの手により独自に取り付けられていた。
かつてAUTOCARのロードテストを担当していたデビッド・ビビアンは、このように説明している。
「フェラーリ288 GTOに対抗するのに十分な速さで、おばあちゃんでも運転できる」
当時、4速ATを搭載した後輪駆動のセダンが、0-97km/h加速で5.0秒フラットというタイムを叩き出し、最高時速295kmに到達するというのは、前例のない、とんでもない偉業だった。
1990年になると、メルセデスとAMGの関係が正式なものとなった。メルセデスにAMGのブランド価値を付与するだけでなく、メルセデスのディーラーを通じて(保証付きで)AMGモデルを販売できるようになった。だが、最も重要なポイントは、メルセデスとAMGが車両開発の分野で協力し始めたことだ。
その最初の成果が、1993年に発表されたW202ベースのC 36 AMGだった。
今日では、510psのAMG Cクラスが買えるというのに、C 36の280psは大したことないように思えるかもしれない。しかし、当時はE36世代のBMW M3とほぼ対等の関係にあると言っても過言ではなかった。
C 36は、後の全世代にわたってAMGモデルの印象を決定づけた重要なクルマだった。