波乱万丈 マツダ「モノづくり思想」の原点はコルクにあった 経営者「松田重次郎」の足跡
公開 : 2021.11.15 05:45
高い技術と独自のモノづくり思想を誇るマツダはコルクが原点。経営者「松田重次郎」とともにその歴史を紹介します。
マツダの原点はコルクに
世界的な自動車メーカーであるマツダだが、1920年(大正9年)の創業時の社名は「東洋コルク工業」であり、正業がコルク製造であった。
では、なぜ、マツダがコルクを作っていたのだろうか?
その理由と、現在のマツダの礎を築いた人物を紹介しよう。
マツダの前身といえる存在がある。
それが広島で明治からコルクの瓶栓を作っていた清谷商会という個人商店だ。
しかし、その業績はひどいものであった。方々から借金をしており、1919年(大正8年)、ついには首が回らなくなる。
そこで、当時のメインバンクであった広島の銀行が再建策として、事業を会社組織とすることにしたのだ。
その結果、生まれたのが、東洋コルク工業であった。
初代社長には企業化を推し進めた銀行の頭取である海塚新八氏が就任する。
そして、そのタイミングで、乞われて経営に参加したのが当時45歳の松田重次郎氏であった。松田氏は、翌1921年(大正10年)に第2代目となる東洋コルク工業の社長に就任。再建に本格的に取り組むことになる。
現在から見れば、松田重次郎氏は、東洋コルク工業をコルクから機械製造へと転換させ、自動車メーカー「マツダ」への路線を導いた人物として知られる。
ブランド名でもある「マツダ」は、もちろん、松田重次郎氏の名前が由来だ。現在のマツダがあるのは、松田重次郎氏あってのこと。
しかし、その松田重次郎氏の参加は、当初は助っ人であったのだ。
では、なぜ、松田重次郎氏が東洋コルク工業に招聘されたのだろうか?
「今太閤」 松田重次郎とは?
傾いたコルク会社を再建するために、なぜ松田重次郎氏が呼ばれたのか。
それは、当時の松田重次郎氏が「今太閤」(裸一貫から関白にまで上り詰めた豊臣秀吉にあやかって)と呼ばれるほど、ビジネスで大成功を納めた人物であったからだ。
ここから、松田重次郎氏の足跡を辿ってみたい。
松田重次郎氏が生まれたのは1875年(明治8年)8月。
広島県安芸郡仁保島字向洋浦の漁師の12番目の子であった。今のマツダの本社工場と同じ場所にあった、小さく貧しい漁村だ。
父を幼くしてなくした松田重次郎氏は、学校には行かず、読み書きは友人の兄に習った。
非常に腕白で負けず嫌いであったという。そして、鍛冶屋に、並々ならぬ興味を抱いていた。
そんな松田重次郎氏は、13歳になると鍛冶屋の奉公するために大阪に向かう。まさに、裸一貫の旅立ちだ。
大阪で鍛冶屋修行を始めた松田重次郎氏は、いくつかもの職場を移りながら、鍛冶仕事だけでなく、旋盤工具などを使う機械鍛冶の腕も磨いてゆく。
そして18歳のとき、呉の工廠造船部に好待遇で向かい入れられる。
さらに19歳になると、当時のアジア最大の軍需工場である大阪工廠へ入所。
さらに、21歳には長崎の三菱造船所へ。
23歳になると、佐世保の海軍工廠へ移る。26歳で再び呉の工廠造機部、31歳で大阪砲兵工廠へ入所。
10代後半から30歳になるまで、当時の最先端の機械技術を扱っていた工場を渡り歩き、松田重次郎氏はモノづくりの技術を磨いていったのだ。