元WRC王者、リチャード・バーンズへの想い 友人が語る素顔 世間との「ギャップ」も

公開 : 2021.11.28 06:05  更新 : 2022.11.01 08:57

2001年にWRCチャンピオンに輝いた故リチャード・バーンズ。友人のラリー写真家が彼の思い出を語ります。

写真家コリン・マクマスターが語る「特別な存在」

リチャード・アレクサンダー・バーンズ。バーンジー。RB。リチャード。新進気鋭のラリードライバーだった1994年に初めて会ったときから、2005年に亡くなるときまで、世界チャンピオンであり、またそれ以上の存在でもあった彼のことを、わたしは光栄にもそのように呼んでいた。

わたしは彼の追悼式でスピーチをした。できれば、彼がわたしにしてくれたことへの恩返しとして、最愛の女性であるゾーイとの結婚式でスピーチをしたかった。

リチャード・バーンズ
リチャード・バーンズ

しかし、それは叶わず、リチャードはわずか34歳で脳腫瘍のために亡くなった。いつものように、リチャードは素晴らしい闘いを見せていたが、彼でさえ病に勝つことはできなかった。亡くなった日は、4年前にタイトルを獲得した日と同じ11月25日であった。

この残酷な皮肉は、彼とコ・ドライバーのロバート・リード、そしてスバル・チーム全員が2001年に達成した幸せな思い出に暗い影を落としている。リチャードはパーティーが大好きで、その気になれば誰も彼を止めることはできなかった。ここではその思い出に敬意を表して、彼を正当に評価し、本人が少し恥ずかしがるであろう話をいくつか紹介したいと思う。

誰よりも努力して掴んだシルクのような走り

世界タイトルの獲得は、リチャードの夢の集大成だった。わたしは、この夢は他の誰よりも努力したことで実現したものだと強く信じている。彼が費やした多くの時間と努力を、わたしは目の当たりにしてきたからだ。

出会って間もなく、わたしと当時のガールフレンドは、リチャードと彼のガールフレンドと一緒に、コッツウォルズの端にあるオディントンという村の、美しい納屋を改装したシェアハウスで暮らし始めた。その後、オックスフォード郊外のキドリントンに移り、リチャードとわたし(当時は独り身同士)の2人で住むようになった。レースやラリーのドライバーたちと過ごす機会が多かったのだが、そのおかげで、彼らの間にある大きな違いを知ることができた。

リチャード・バーンズ
リチャード・バーンズ

競技ドライバーはひたむきな人が多いが、リチャードは絶対的に熱心で、向上のためには何でもした。例えば、ペースノートをもっと速くするために常に改良を加えようとしており、テレビ制作会社からすべてのオンボード映像のテープを取り寄せ、かなりの時間を費やして研究していた。リチャードと同じような才能を持っている人は少ないかもしれないが、彼をトップに押し上げたのは純粋な努力だった。彼は誰よりも努力し、自分のドライビングや走行したステージを詳細に分析し、ひたむきに上を目指した。

そして、満足したときだけ、大好きなテレビ番組「ザ・シンプソンズ」を観ていた。その努力の一例が、独自の分割ペースノート・システムだ。彼とコ・ドライバーのロバート・リードは、すべてのコーナーを「入口」「頂点」「出口」の3つの部分に分解した。ここまで細かく処理するのは非常に難しいことだったが、彼らは見事にそれを実現した。

彼らはそのようなチームであり、霧の中でライバルが視界を奪われる走る中、まるで目が見えるかのようにタイムを出し続けた。無敵だった。ロバートはルートを正確に描写することができた。リチャードも彼を全面的に信頼していたし、言われたことをすべて受け入れる能力があったからこそ、タイムを更新することができたのだ。知性、スピード、勇敢さ……すべてを兼ね備えたパートナーシップだ。

しかし、その速さに見合う評価を得られないこともあった。彼をレンズ越しに見てきたわたしは、とんでもなく速かったと確信している。キャリアにおけるステージ最速タイムの統計がそれを物語っている。ハンドルを握る彼の芸術性を真に評価するには、多少の理解があれば十分だ。彼のスタイルはシルクのように滑らかで、コーナー出口ではライバルよりもはるかに高いスピードを出していた。フィンランドのような、超高速で正確さが求められるラリーでは、それがよくわかる。ここ数年は、リチャードだけが地元の人たちと互角に戦えていた。

もちろん、そのスタイルはコリン・マクレーとほぼすべての点で対照的だった。1990年代後半から2000年代前半にかけての世界ラリー選手権は、英国人にとって素晴らしい時代だった。わたしのカメラのレンズを通すと、コリンは常に華々しく大胆に見えたが、リチャードはそうではなかった。彼は自分なりの速い走り方を持っていて、効果的ではあるが、必ずしも目を見張るものではない。

その対決はメディアにも及び、コリンはクルマを降りると自発的に自分の意見を述べた。けれど、2人とも根っからのシャイな性格で、数年後にはお互いに頂点に立っており、わたしは最高の友人だと感じていた。悩みの種は、初期の頃、出世街道を歩んでいたコリンの弟アリスターがリチャードに押されて苦戦していたことだ。困ったことに、コリンは自分を抑えることができずにメディアを巻き込み、その過程でリチャードを巻き込んでしまったのだ。わたしも、メディアではコリンに負けていたと思うが、ステージでは別の話である。

コリンとリチャードの仲の良さは、何度も自分の目で確かめた。2002年に南アフリカで行われたスコットランド人ラリードライバー、ロビー・ヘッドの結婚式での2人の様子は、わたしにとって最も幸せな思い出の1つだ。彼らはケープタウンの巨大な賃貸住宅を共有しており、結婚式の1週間前からパーティーの拠点となっていた。お互いの尊敬と友情は誰の目にも明らかだった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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