デ・トマソ時代のヴィンテージ マセラティ・シャマル 誤解されたクーペ 後編

公開 : 2022.03.05 07:06  更新 : 2024.11.16 08:54

ブランド苦難のデ・トマソ時代に誕生したシャマル。気難しいイメージが先行するクーペを、英国編集部がご紹介します。

1996年までに369台だけがラインオフ

マセラティを勢いづかせるべく、シャマルが発表されたのは1989年12月。しかし経営は不安定なままで、ミラノの工場は閉鎖され、1000名の労働者が解雇されていた。

同年には、株式の49%をフィアット社が買収。当時の報道によれば、アレッサンドロ・デ・トマソ氏が脳相中に倒れると、デ・トマソ社側から申し出があったという。その後イタリアの巨大自動車メーカーは、1993年までにすべての株式を取得していく。

マセラティ・シャマル(1990〜1996年/欧州仕様)
マセラティ・シャマル(1990〜1996年/欧州仕様)

イタリアの名門ブランドを受け継いだフィアットは、立て直しに取り組んだ。経営責任者にパオロ・カンタレラ氏を指名。フェラーリの元会長で、アルファ・ロメオの経営にも携わったエウジェニオ・アルザティ氏も参画している。

だが、シャマルがマセラティの将来を担うことはなかった。新型のギブリと、クアトロポルテIVが、その役目を任された。

シャマルは1996年に生産終了。1990年からラインオフしたのは、369台だけだった。数は少なかったものの、ブランドを延命させるだけの存在感はあったといえる。

当時の試乗レポートを振り返ると、限界領域を超えると少々手に負えないという記述がある。それ以来、背筋が凍るような気性の荒さを持つというシャマルのイメージは、醸成されてきたように思う。

ただし同年代のスポーツモデルには、程度の差はあっても、共通することだったともいえる。むしろ読み返してみると、そんな指摘以上に、歓迎するような熱気を感じられる。

過小評価なガンディーニのスタイリング

著しい希少性が、イメージを余計に膨らまたのだろう。シャマルが実際に走る姿は、新車当時ですらほとんど見られなかった。それによって、ある種の伝説が生まれたのだ。

マルチェロ・ガンディーニ氏によるスタイリングも、正しい評価を得られなかった。マセラティとしては保守的ながら、改めて眺めると、堂々としていて魅了される佇まいだと思う。攻撃的な性格が、滲み出ているようでもある。

マセラティ・シャマル(1990〜1996年/欧州仕様)
マセラティ・シャマル(1990〜1996年/欧州仕様)

1980年代から1990年代らしい、膨らんだブリスターフェンダーやサイドスカート、エアインテークが勇ましい。フロントガラスの付け根部分にも、スポイラーが載っている。気流でワイパーから雨水を効果的に流す効果があるという。

ドアを開いて運転席へ座わると、こちらもデザインは保守的。艶やかに磨込まれたウッドに柔らかくなめされたレザー、肌触りの良いアルカンターラが惜しげもなく与えられている。高級なグランドツアラーらしい。

フロントシートはサイドボルスターが立ち上がり、メーター類は読みやすい。リアシートも備わるが、どちらかといえば雰囲気を高めるための装飾に近い。

V8エンジンを始動させると、お目覚めは穏やか。洗練された質感で、アイドリング中のエグゾーストノートも小さい。

1速にギアをつなぎ、踏みごたえのあるクラッチペダルを緩める。真っ赤なマセラティは、クリーンに発進した。油脂類が温まると、エンジンは扱いやすく、サウンドも良くなっていく。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 撮影

    オルガン・コーダル

    Olgun Kordal

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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