新しい翼を手に入れた日産ブルーバード 英国工場35周年でEVに生まれ変わった「ニューバード」とは

公開 : 2022.03.30 06:05

3代目ブルーバードをベースに英国でEV化されたニューバード。関連深いサンダーランド工場を訪問しました。

EV化された日産「ニューバード」

「ニューバードを初めて見たとき、すべてが懐かしく思い出されました」と語るのは、英国にある日産サンダーランド工場で生産管理者を務めるピーター・ロビンソン。1987年当時は、トリムとシャシーの部署で熱心に働く、19歳の新人だった。

サンダーランド工場は前年の1986年9月に開設されたばかりで、3代目ブルーバード(セダンとリフトバック)の1車種を組み立てていた当時の従業員数は490人だった。現在、工場の総生産台数は1050万台を超え、はるかに広くなった敷地で6000人以上が欧州向けのリーフジュークキャシュカイの製造に従事している。

日産ニューバード
日産ニューバード

54歳のロビンソンは、この工場で働く4人のベテランのうちの1人。「ニューバード」は彼らと同じように、日産の過去、現在、未来をつなぐ架け橋となっている。ベースは1989年に同工場で製造されたブルーバード・リフトバックGSだが、オリジナルの1.8Lガソリンエンジンではなく、現行型リーフのバッテリー、インバーター、電気モーターを搭載しているのだ。

英国日産は2021年末、サンダーランドにおけるブルーバード製造開始から35周年を記念し、EVのニューバードを公開した。設計は、サンダーランドから25km離れたダラムで、クラシックカーをバッテリーEVに改造する家族経営のキングホーン・エレクトリック・ビークルズが担当した。

ロビンソンや彼の同僚にとって、ブルーバードは1986年当時、英国人(あるいはサンダーランドの人々)も日本人やドイツ人と同じようにクルマを作ることができたんだという証拠である。

信頼性の高さが評価されたブルーバード

当時のブルーバードは、動力性能の面ではプジョー406のような落ち着きに欠けるし、外観的にも飛び抜けて美しいものではなかった(公平を期すために書いておくと、フォード・シエラもそうであった)。しかし、人々はそれを受け入れ、ブルーバードの品質、信頼性、スペック、そしてコストパフォーマンスに注目したのである。

当時、英国の大衆紙デイリー・メールの冒頭の見開きには、「日産ブルーバード……おそらく英国で最も良く作られたクルマ」と書かれていた。その文字の下には、保証請求率が英国で最も低いことを付け加えている。筆者の隣人の、21年前に製造されたプリメーラがまだ健康であるように、ブルーバードの品質は後継車にも受け継がれていった。

日産ニューバード
日産ニューバード    AUTOCAR

日産は1986年から1990年にかけて18万7000台強のブルーバードを製造した。工場のベテランたちは、「1台作るのに丸2日かかった」と振り返る。

体力勝負の仕事だった。例えば、リフトバックのテールゲートは3人がかりで組み立てる必要があった。セダンの重い一体型リヤシートも同じ。ルーフは4人で持ち上げ、ボディサイドはモールグリップでしっかり固定しないと滑り落ちてしまう。その周りには溶接の作業員がいて、火花で火傷をすることもしばしば。

一方、車内では、腕を高く上げてハサミでヘッドライニングを切りそろえる人、フロントバルクヘッドからリアまで苦労して配線を通す人、ダッシュボードを組み立てる人など、さまざまな人がいた。その傍らでは、箱をこじ開けて部品を取り出し、包装を解いて仲間に渡していく作業もあった。それぞれが、4分48秒以内に自分の仕事を終わらせなければならないというプレッシャーの中で必死に働いていた。

「騒音、埃、煙がすさまじく、みんながお互いの周りで作業をしていました」とロビンソンは振り返る。「幸いなことに、現在では車体工場とシャシー工場が別の建物にあるなど、仕事の整理整頓が行き届いています」

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジョン・エバンス

    John Evans

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    平成4年生まれ愛知在住。幼少期から乗り物好き。住宅営業や記事編集者といった職を経て、フリーランスとして自動車メディアで記事を書くことに。「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事